2000年初頭からの因果 (2020/08/08)

大事なことは、マイペースに続けること。もったいぶって書き悩むと次から次に楽しい日々が積み重なり過去を忘れさせてしまう。

さて、ペースを乱さず書くとする。

■2020/08/08

たまにいろいろなスケジュールが重なる。ありがたいことにどれも私のためのスケジュールだ。代役はない。この日もそうだった。そうだったと思う。

16時から福岡のUTEROでSACOYANSの撮影だった。ワカミホさんの撮影を終え、バックアップをし終えた時点で23時をまわっていた。そこからワカミホさんに渡すべく少し作業をした。少しのつもりが・・・気づいたら朝4時くらいだった。愛媛から少なくとも6時間はかかると思ったので逆算したら、10時には出ないといけなかった。三崎港へ行くのに二時間かかったので、何時に出ればよいのか・・・考えたくなかった。思考できる体力も気力もなかった。偶然にも昨夜有益な情報を聞いたので、藁をもすがる思いで調べたら圧倒的に効率がよかった。

それは、愛媛から山口へフェリーで渡り高速に乗って帰るルートだ。

松山市の三津浜港から山口の柳井港へ行くものだ。このルートだと、港まで20分だし、1時間ごとに船も出ていた。これだ。これに乗ろう。


寝坊した。あわててホテルを出て急ぎ港へ行き、なんとか乗り込む。これに乗れなかったら、2時間遅刻していた・・・

(リサイズ)20200808風景-001(愛媛、三津浜港)

(リサイズ)20200808風景-003(愛媛、三津浜港)


通り過ぎゆく船

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松山市と柳井市を結ぶこのフェリー、途中で周防大島の港に立ち寄った。

そのときふと思い出したことがある。20年ほど前、当時の友人Aくんと先輩と3人でこの周防大島に行ったことがある。Aくんの当時の彼女の家に行く車に私と先輩で同乗して山口~広島観光ツアーをした。周防大島は、当時の記憶では何もなかった。一泊したが別段記憶はない。当時のA君の彼女の仏壇がやけに豪華だったことだけ覚えている。

ただ、そのときに撮影した一枚の写真がある。

画像4

Aくんが手を広げた写真と空を合成した写真だ。これは、多重露光撮影ではなく、暗室の現像時にネガを重ねて露光した写真だ。

この写真を撮影した2000年頃、私は週末になると路上で写真を売っていた。HBK!という名前で始めたばかりのころでライブ写真とは無縁だった。毎週道端にござを敷いてポストカードや暗室でプリントした写真を並べて路上に並べていた。同じような仲間がたくさんいて当時は週末になるとその一角はアート好きの連中が集まって路上で展示・販売していた。ゆるい時代だった。特に咎めを食らうこともなかった。先述の我楽夢(がらむ)もこのときの出会いだ。

そんなある日、一人の男性が立ち止まった。そして、Aくんの写真を見てとても気に入った。「この写真を次のCDのジャケットに使用したいけどいいかな?」と尋ねられた。二つ返事でOKをした。その人は、SYOさんという方で当時「'cause」というバンドをしていた。ヴィジュアル系は好きだったので嬉しかった。SYOさんは親切で当時のSKULLROSEにポストカードを委託販売させてくれたり、自身のイベントで壁中に飾ったりさせてくれた。

しかし、今以上に社交性のかけらもない非常識な私は感謝しながらも親切さにちゃんと挨拶やお礼を返すことが煩わしくなり、次第に返信が滞ってしまった。

それから十数年。ライブフォトグラファーとしてのHBK!で親不孝通りを行ったり来たりしていたある日、友人から紹介された人がSYOさんだった。お互いに覚えていなくて「はじめまして」だった。当時と大きく違いSNSがあったので彼のプロフィールを一通り見ていたら、「この人、もしかして?」と思いメッセージを送った。SYOさんも驚いた様子で「あの時の人!?」とお互い再会を喜んだ。

そのSYOさんとは、SNSのおかげで互いにたまに連絡を取り合う。2016年末にまさかの'cause再結成ライブには感慨深いものがあった。

(リサイズ)20161230DRUM B9-0008('cause)

(リサイズ)20161230DRUM B9-0073('cause)

因果はつながっている。2000年のあの周防大島の退屈な1日がなかったら、SYOさんとの因果はない。

それって何だかミステリー

これは、私へのサポート機能です。 次の撮影、次の次の撮影のための資金として使わせていただきます。