劇場版シン・エヴァと東日本大震災の思い出

初めてこういう感想を書きます。色んな方々が書いたネタバレを含んだ様々な考察に触れ、自分自身のエヴァへの気持ちを書いておきたくなりました。

新劇場版シン・エヴァのネタバレを含んだ内容となります。












エヴァのTVシリーズが始まった1995年は大変な時代でした。阪神淡路大震災が起こり、オウム事件がありました。どちらも歴史の教科書に載る世界的な大転換が起きた出来事だったと思います。

そんな中でエヴァのTVシリーズは始まりました。自分は地方出身者なのでエヴァを知ったのは放送終了直後のあの大論争が起きたときです。当時本放送を観れない環境ながらかなり早い段階で事件の概要を知り、ある程度把握していた時点で当時からどっぷりオタクだった自分はその後深夜帯で再放送(実際には地元では初放送でしたが)を観賞しその世界観にハマります。とはいえ既に成人しており、シンジ達の立場よりはミサトや加持達に感情移入して観ておりました。マンガ版も読んでいた事で更に深く沼に足を突っ込んでいきます。

数多くの考察本を読破し、盛り上がりがピークに達した時に旧劇場版が来ました。そこでの感想は正直言ってああやっぱりこの物語はバッドエンドしかないんだな、でした。

だから新劇場版を始めると聞いた時はこれ以上何をするんだとしか思えなかったし、貞本版エヴァである意味ケリがついたと思っていた自分としては蛇足以外の意味が見出せなかったのです。

なので序は映画館で観ませんでした。後日レンタルで観ましたが多少は違うけど基本焼き直しだなと思ってました。それでもシンジがある程度能動的に動いていた事とミサト達がそれなりに情報を把握した上でシンジに開示していたのは驚きでした。

破は映画館で観ました。シンジが積極的に動き、周囲の人々に働きかけ、周りの人達も前向きに動きあのゲンドウが歩み寄る姿勢を見せた時にこれでシンジも救われるかもと期待していました。ただアスカが相変わらず不憫でした。シンジを救う為の犠牲者でしか無いのかとその扱いに偏りを感じて哀しかったのを覚えています。

そしてQです。観終わった時は頭が痛く吐きそうになりました。旧劇場版でもそこまではならなかったのに衝撃でした。シンジに向けられる悪意とある程度その心情がわかっていたつもりだったミサト達の掌返しが自分が過去受けてきた裏切りと同調し身体にダメージを与えていました。この日観てからQは観ていません、自分の体調に自信が無かったのが最大の理由です。

それから8年、シン・エヴァが遂に公開されました。

当日とはいきませんでしたが水曜日に観る事が叶い全てを見届けた時に出た感想はやっと呪いが解けた、この一言でした。この場合の呪いはエヴァだけでは無く10年前に起きた東日本大震災の経験の呪いも自分には含まれていました。

10年前、自分は地元で仕事中に被災しました。職場は柱にヒビが入り当然中はぐちゃぐちゃになっておりいつ復旧するかは全くわからない状況でした。自宅も全てしっちゃかめっちゃかでしたがあくまで地震による被害で津波が来るような地域では無かったので家や知人を失うという事はありませんでした。

仕事がいつ始まるかわからない状況だった事を利用して被災地に入って行うアルバイトを始めました。50人程度の人達が集められて各自4人程度でレンタカーに同乗し被災地に入りました。

ここで見た光景を書き出すのは余り意味がないと思います。写真からある程度見える部分でしょうから。ただあの時の匂い、道路の凹凸と落ちた橋をずっと案内し続けるカーナビ、無言でブルーシートを運んでいる複数の人々は今でも鮮明です。自分がどこを走っているのか判らず、津波から免れたホテルを見て初めてそこが自分の知っている地域だった時は声が出ませんでした。そこには仕事で会った人達の家が有った筈でした。全く無かった、本当に何もかも。

思えばこの時自分には呪いがかかったのです。自分自身が勝手にかけた独りよがりな呪いが。

身近にこんなに大変な目に遭っている人々がいるのにその場に関係ない自分が入り仕事をし、賃金を得ている事に強烈な罪悪感を覚えました。必要だから入っているのにそれすらも卑怯な事の様に考えていました。

その後仕事に復帰してアルバイトは3ヶ月程で辞めました。元々短期だったので仕事が始まれば当たり前に終わる仕事でした。それもまた自分がたまたま津波の来ない地域に居ただけだと引け目を感じました。

数年後、シンゴジラが上映されました。

Qで打ちのめされていた自分はゴジラを庵野監督が手掛けると聞いた時にはなんの期待もしていませんでした。とんでもないカオスに利用されるゴジラが可哀想だとすら思っていたのです。

しかしシンゴジラは自分が想像していたものと全く違いました、震災後のこの日本を勇気付ける内容でした。震えました、泣きました。この映画を作ってくれた庵野監督に感謝しました。

思えばQは東日本大震災の後に作られた作品でその衝撃と罪悪感に苛まれる庵野監督がそのままの苦悩を出した作品でした。同じ罪悪感を抱えていた自分は体調を崩す程同調したのは当たり前でした。その後庵野監督は鬱になり、一年間職場に近寄れなかった。その気持ちが痛いほどわかりました。あの当時生きていた人間は全て当事者でした、しかし被害の中心には居なかった。自分の様な被災者ですらその中心に居なかった事は安易に自分を被災者と言えない強烈な罪悪感を伴いました。そんな時にあれだけ自分に向き合った映画を作ってタダで済むわけないでしょう。その庵野監督がシンゴジラで希望を描いた。それは自分の様な被災者だけど被災者ではない人間に響いたのです。

庵野監督が、制作スタッフが、キャスト陣が、協力会社が、スポンサーが、上映を延期し、更に延期してその上で10年目の3.11前にこの映画を月曜日からという映画業界の常識からも外して公開に踏み切った事はこの映画は東日本大震災を経験し、更にこの10年という月日を過ごしたからこそ生まれたという制作陣からのメッセージと受け取りました。更に言えば阪神淡路大震災を経験し、オウム事件を経て制作されたTVシリーズのエヴァ、そこからの9.11や失われた20年、そういった時代においてずっとアニメというカルチャーの最前線で走ってきたエヴァ制作陣からのカーテンコールだと思いました。

終盤シンジは登場人物ひとりひとりにさよならを告げます。そして彼らは舞台を降りていきそれぞれの場所へ帰って行きます。最後にシンジはあの海辺で一人佇み、自身が消えるのを待ちます。

そこにマリが現れてシンジを連れ出すのですが自分としてはやはりエヴァのシンジはあそこで消えたと思います。その後宇部前川駅にいるシンジは外見が変わり、声も変わり、どうやら匂いも違う様です。エヴァのシンジは終わり、新しい碇シンジはマリと共に全く違う物語の登場人物として外の世界へ踏み出して行きました。反対側のホームに居るカヲルに似た人も後ろ姿のレイに似た人もこれからまた違う世界、少なくともシンジのいない世界へと向かうのでしょう。それこそがシンジ=エヴァのいない世界なのだから。アスカはもう既に居場所を見つけているのでホームには居ません。あの宇部前川駅はこれから居場所を探す人々が出発する為の場所なのでしょう。

エヴァという作品は良くも悪くも平成を代表する作品であると共に令和という時代においては過去の遺物として決着をつける必要がある作品でした。だからこそこのタイミングでの公開だったのでしょう。そしてその決断を少なくとも自分は全面的に支持します。他の誰が何と言おうとも、私はこの映画を観て本当に良かった。感謝しかありません、ありがとうございました。

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