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絵本の読み聞かせとともにやってること―「吹き出しつけ」の意図と目的など

約半年間を振り返る

娘に毎日読み聞かせをするようになり、約半年が経ちました。この半年の間に、娘とはたくさんの絵本を読み、私なりに工夫をしながら「娘とはなす」試みをしてきたつもりです。

私が娘に絵本の読み聞かせをする主な目的は下記3点です。
・絵本を楽しむこと
・娘の世界を広げること(語彙を増やすことを含む)
・娘に「考える」経験を積んでもらうこと

特に、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読んで以来、上述の下2点についてはとても意識をしているつもりです。

上記目的を達成するため、絵本を読むなかで娘に登場人物の気持ちを考えてもらったり、吹き出しつけをしてもらったりと、私なりに工夫をした「はなし」を娘としています。

しかしながら、毎日、娘が選んだ絵本のなかで、「出たとこ勝負」で「はなし」をしているため、自分でも、その目的や意図を見失ってしまったりうまくやれているのか不安に感じる部分もあります。そのため、一度、自分がやっていることを振り返りつつ、その意図や目的を明確にしたいと思っていました。以下、私の記録と反省です。


前提として ―物語文を読む際のフレームワーク

私が娘とする「はなし」の前提として、私が子どものころからずっと使っている物語文を読む際の「フレームワーク」について、簡単に説明をさせていただきます。自分が考える際、娘の「答え」の適切さを判断する際、娘が答えられない場合に助言をする際などにこの「フレームワーク」を活用しています。

物語文は「出来事→心情→行動」で考える。

たとえば、「吹き出しつけ」については、登場人物の「発話」という行動を答えることになります。そのため、「発話」の内容が、当該行動に至るまでの「出来事・心情」を適切におさえているか、反映したものになっているかをポイントに内容の適否を判断しています。

また、娘がわからなかったり、頓珍漢な内容を答えた場合は、「出来事・心情」を一緒に確認しながら、「正解」の範囲に収まる内容を一緒に考えるようにしています。

※上述の「フレームワーク」は私がお世話になった先生のオリジナルかと思っていましたが、どうやら一般的なものであることが最近わかりました。

吹き出しつけについてのまとめ

今回は、「吹き出しつけ」について、まとめたいと思います。

<やること>
登場人物の絵に、その場面において適切な「会話文」を「吹き出しとして」つける

<目的・意図>
・自分でしっかり考えること
・「多様な考え方があること」に触れること
・「話す、表現する」ことの練習をすること

<良い点>
「吹き出しつけ」は私のなかでは、「いつでもどこでもやれる取組」という認識です。困ったときの「吹き出しつけ」だと思っています。特に、吹き出しの内容は、文脈と当該部分に係る「出来事・心情」さえおさえていれば良いため、答えの自由度は非常に高くなります。そのため、一定の条件のもとで子どもが自由に考えることができ、多様な会話文を「正解」とすることができることから、「やりやすく楽しい取組」だと思いってます。

また、子どもが答えた会話文の内容に、子どもの性格を感じることができたり、日常の出来事の捉え方を垣間見ることができるなど、出題者としても興味深い取組だと思っています。

加えて、いわゆる「正解」が見えにくく多様な内容が「正解」となりうるため、子どもが親の顔色を窺ったり、忖度をする必要がなく、「しっかり自分で考える」ことに取組みやすいという利点もあります。さらに、「正解」の範囲の広さから、子どもが答えた内容とは別の会話文の例を伝えることで、「さまざまなことが考えられる」という、一つの事象に対する「多様性」を感じてもらいやすい取組でもあると考えています。

なお、まだ実際にはできていませんが… 会話文を自分でつくりだすことは、「自分の言葉で話す、表現する」ことの練習にもなると考えています。「幼児あるある」だと思いますが、兎角、子どもの説明は、端的な短い言葉で終わりがちなことが最近、気になっています。そのため、相手に伝わることを意識した「会話文」を考える練習も「吹き出しつけ」でやっていきたいと思っています。

<悪い(難しい)点>
「吹き出しつけ」はあまり失敗をしない取組だと思っています。ただ、たまに「選んだ場面が簡単すぎたかな」と思うことは、これまでに何度かありました… しかし、当該取組に関しては「簡単すぎたからダメ」ということはなく、そこから「表現すること」の練習をしたり子どもとの会話が弾めば良いとも思っています。会話も弾まなく、「じゃあ、次に行こうか」ということもありましたが…

すべての「子どもとはなす」ことに言えますが、子どもの発達に合った絵本や場面を選ぶことが難しいという点が「吹き出しつけ」の難しさとしてあります。


<吹き出しつけ」は簡単?>
「吹き出しつけ」が簡単か否かは、選ぶ絵本と場面による部分はありますが、私自身が娘とやるなかで、「簡単すぎて失敗したかな?」と思うことはあったものの、「難しすぎて失敗したかな」と思ったことは今のところありません。そのため、「吹き出しつけ」は比較的難易度の低い取組だと思っています。

しかしながら、「吹き出しつけ」は意外と難しいと感じた私自身の経験があります。私自身が小学校2年生だったとき、国語の時間に「吹き出しつけ」の課題が出されたことがありました。当時の私は、何をどう書けば良いのかわからず、それ故に、「みんなはどんなことを書いているんだろう」と気になってしまい、最後まで「吹き出しつけ」ができませんでした。大人になっても忘れられない苦い記憶です(笑)

そのため、娘が楽しそうに、そして伸び伸びと「吹き出しつけ」をやってくれることを、「ママ」はうれしく思っています。上述の小学生の私には、上記<意図・目的>で記載した能力が不十分だったことが、大人になった今になって振り返ってみるとよくわかります。娘には、自分の反省を生かした教育をしたいと思います。


<取組例>
※絵本の概要等は、リンクをご参照ください。

あさえとちいさいいもうと
本絵本では、幼稚園児(?)の「あさえ」とまだ2~3歳と思われる妹の「あやちゃん」がお留守番をすることになります。そして、お留守番をして早々、あさえが少し目を離したすきにあやちゃんがいなくなってしまうという事件が起こります。あやちゃんを必死に探すあさえ。「あやちゃんは無事なの?」、「どこにいっちゃったの」というあさえの気持ちが痛いほどに伝わってくる絵本でした。幸いなことに、あやちゃんは公園で無事に見つかります。そして、最後はあさえがあやちゃんを抱きしめいる絵が描かれて終わりというストーリーです。

本絵本の最後の場面で、娘に「吹き出しつけ」をやってもらいました。娘の「答え」には、娘の性格が現れていると考えられ、とても興味深い「吹き出しつけ」ができました。本当は、私が考えた「吹き出し」を娘に伝えて、「考え方の多様性」を娘に感じてもらいたかったのですが、いつか本絵本を再読して、同じ場面で「吹き出しつけ」をやってみたいと思ったため、私が考えていた「吹き出し」は伝えませんでした。


ポチポチの図書館
本絵本では、いつもの図書館に飽きてしまった主人公の「ぼく」が不思議な動物・ポチポチに導かれて、動物たちが書いた本のみが置かれている「ポチポチの図書館」に行きます。

ポチポチに図書館を案内してもらった「ぼく」は、「おいしいちのすいかた」という本を読んでいるコウモリと出会います。当該場面で、主人公のぼくとポチポチに向かってくるコウモリと、そこから逃げようとするぼくとポチポチに吹き出しをつけてもらいました。

娘によると、ぼくとポチポチは「助けてー!」と言っていて、コウモリは「待てー!」と言っているそうです。

娘の答えに、そのときの私は、「コウモリさんたちは『待てー、血を吸わせろ』って言っているのかもね」とそれとなく補足をしていましたが。。
今振り返ると、コウモリの説明をしたうえで、「血を吸わせて」も娘が答えられるようにサポートをしても良かったように思います。


ピヨピヨ スーパーマーケット
本絵本には、ピヨピヨちゃんたちがお母さんとスーパーマーケットにお買い物に行っている様子とその後のお家での様子が描かれていました。スーパーでの場面の中に、お菓子の棚の前でひっくり返ってじたばたしているかわうそ(?)の子どもがいました。「吹き出しつけ」とは少し異なりますが、娘にかわうその子どもが何をしているのか聞いてみました。

娘によると、「お母さんが『お菓子買うのダメ』って言って『やだー』って言ってるんだと思う」だそうです。考え方によるのかもしれませんが…
娘の言葉を聞いて、「そうか、娘にとって『ママはお菓子を買うのはダメと言うもの』という認識なんだな」と思い、何だか複雑な気持になったことがありました。

<まとめ>
これまで娘とやってみた感触として、「吹き出しつけ」は「簡単過ぎる」というイメージがあったため、自分のなかで「吹き出しつけ」を軽視していたきらいがあります。ただ、今回改めてまとめてみると、思いのほか悪くない取組のように感じました。

たまに、娘と「はなす」べき点を見つけることのできない絵本と出会うことがあります。そのような絵本はそれで良いのかもしれませんが… そのようなときこそ、きちんと「目的・意図」を意識したうえで、「吹き出しつけ」ができないか検討したいと思いました。


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