“誰か”の暮らしやすさじゃない、自分の暮らしやすさを考える。

 今月1ヶ月、外出したり人と会ったりする予定や仕事をかなり減らし、ある実験をしている。それは、「自分に生活を寄せる」ということ。
今の自分が、本当に生きやす暮らし方について検討したいと思い、始めてみた。

 ふたつ、きっかけがある。
ひとつは、数年前の入院。ヘルペスがひどく病院にいったら、即入院を告げられたのだが、実は帯状疱疹と誤診されたうっかり入院だったので(笑)、身体は元気、ベッドの上で毎日本を読んだり考えごとしたりして、栄養たっぷりのご飯と、早寝早起き、それはそれは充実した日々を過ごした。このときが一番心が健康だったと思う。
 この頃から、入院していた一週間のことを思い出しながら、自分にとって本当に心地よい生活の仕方ってなんだろう。と考えるようになった。

 そして、もうひとつのきっかけ。今年の7月、3週間ほど休暇をとって、ミャンマーへと旅に出た。ミャンマーでは、自分の家と、誰かの家や公共空間との境界が薄い。観光地の寺院では、仏像の裏でおばちゃん2人がすうすう昼寝していたり。生活感が外に漏れ出していた。
 旅自体は楽しかったが、わたしはどんどん、そのプライベート空間が漏れ出すミャンマーの空気にストレスが溜まっていった。ずっと心の中で「茶室に行きたい」と呟いていた。行ったことないのに。静謐な、侵されない空間にこもりたかったのだ。
 この旅で気づいたのは、自分は、プライベートスペース/パブリックスペース/セミパブリックスペースを使い分けて移動するのが好きなのだ、ということ。ミャンマーに来るまで意識をしたことはなかったことだった。

 そんなことがあり、「もしかして、日々の生活のなかで、実は違和感を感じたり、嫌だなと思いながらやりすごしていることってあるのかも?」と思い、“自分の暮らしやすさ改革”のため、実験してみることにしたのだ。

 人に会う予定をかなり減らしたので、1日の中で、どこで何をすれば心が落ち着くか、何かしっくりこないところはないか、を気にかけながら過ごしてみる。
こんまりの“ときめき”ではないけど、“違和感”感じたらちょっと立ち止まれ。というルール。

 さて、二週間ほど経て現時点で分かったいくつかのこと。
◯場所の分類が明確じゃないと嫌
・ご飯を食べる場所と仕事をする場所、明確に分けたい。これまで同じテーブルを使っていたけど、キッチンでご飯を食べることにした。
・トイレとお風呂だけは、中にあるモノの色が揃っていないと嫌。歯ブラシや歯磨き粉、掃除用具など色を一色に統一。
・書く机はぐちゃぐちゃでも平気。これまでご飯のたびに片付けていたけど、ご飯の場所が別だし、片付ける必要ナシ。

◯書く、仕事のスイッチ
・珈琲の匂いを嗅いだらスイッチが入る。できるだけ挽きたての豆を使う。
・ほとんどの仕事は地べた座りの方がはかどる。奮発して買ったチェアとデスクはあるけど、罪悪感感じずに地べたで書こう。
・フィクションを書くときは歌を歌いたいらしい。だから外で書くのは、はかどらない。

◯目に見えるものは把握したものにしたい欲求
・自分の家のまわりに、未知があるのが少し気持ち悪い。行ったことない場所に、少しずつマーキングしていく。(犬か!)
・部屋で目につくものは、今の意識と関連づいたものだけの方がいい。視覚情報と脳内の情報が直結して散漫になる。本棚に布をかけよう。

 しっくりきているか、を自分に問うてみて、二週間でも気づくことはたくさんあった。そして、少しだけ息がしやすくなった感覚がある。来月からは、また仕事量は戻すのだけど、この暮らしやすさを軸にして考えながら予定を組んだり、生活をしようと思う。

 きっとこれまでのわたしには、ていねいな暮らし、とか、◯◯な暮らし、というメディアで目にする素敵な誰かの「暮らしやすさ」のイメージが刷り込まれていたんじゃないかと思う。だって、台所でご飯食べるとか、なんかヘンじゃない? 昭和の忙しいおかんみたいじゃない? そうやってつっこみたくなるけど、誰かからしたらヘンかもしれないし、偏ってるかもしれないことでも、自分の身体がしっくり来る方を、選んでいきたい。

 

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