仕事の本質(イシュー)が分からない人

教員の仕事はどんなものがあるか。ざっと並べてみる。

会議の資料作成。

授業準備。(教材研究 プリント作成 印刷)

生徒指導。(学習面、面談、生活面など)

会議。(職員全体、朝会、学年会、係会)

他にもPTA関係や保護者との連携。部活動指導などもある。

はっきりいうと9割は雑務である。本質的な仕事は1割にも満たない。では、本質的な仕事とは何であろうか。仕事とはそもそも課題を解決するためにあるのである。では課題とは何であろうか。人は3つの側面に分けられる。生徒面、職員面、組織面。ハード面なら、学校の施設や地域の環境面などが挙げられる。ただ、1番大切なのは「生徒自身が抱えている課題解決」である。それを分かっていない。資料を出すことや会議を開くことが目的化する。手段が目的化することがしばしば起こる。何が本質なのか。1番大切なことは何なのか。運営(教員)側の都合で話が進む。そこに学習者の視点がしばしば失われてしまうことがある。年間計画を予定通りこなすことが目的化してしまうこともある。常に今の課題は何か。その課題を解決するためのベストな方法は何か。それを考えて模索していかないといけない。不毛な争いは自分のエネルギーを無駄に消耗する。愚痴は言わない。自分の信じることを重ねていきたい。 学校の先生を職人(例えば、大工さん)と仮定して、生徒を木だとしよう。かつての教育長がこんな例えをしていたのを思い出した。その木にどれだけ手をかけて、形を変えて立派な建築物にするか。それは職人の腕にかかっている。この例えは、半分肯けるが、半分は同意できない。確かに職人の手によって木は様々なものに変わる。だが、職人は大抵、木を自在に扱える。だが、人間はそうはいかないのである。A先生がBというやり方でC君の点数を20点上げることができた。だが、D君は同じ条件でも1点も上がらなかった。これが教育の世界である。一つでも条件が変われば、全く結果は変わってしまう。極論すれば、やってみないと分からない世界である。PDCAサイクルなるものが教育界で流行っている。私はこれにも懐疑的である。これはそもそも工場のビジネスモデルの形態であり、人を作る「人材工場」の学校にも転用したようだが、人とものは全く違う別物である。無論、全ての仕事でPDCAが無意味であるとは言わない。特に儀式的なもの、行政色の強い仕事なら多少は有効なのかもしれない。だが、人材や「教育」、学習者の視点に立った場合はこれはたまったものではない。そもそもこのプランを立てる主体が誰なのかがここでは問題とされていない。権力者の都合なのである。多くの人が工業社会ベースで議論をしていることに気がついた。明確なモデルや目指す目標があってそこに近づけていく考えである。できるだけ計画通り行う。それはそれで優秀な工場労働者を育ててきた。だが、現在はどれくらいの人が「工場労働者」になるのだろうか。社会の急激な変化に目を向けているだろうか。下降するエレベーターの中にいると、自分たちがどれくらい世界から取り残されているか分からない。そのエレベーターの周囲がガラス窓でできていて世界の様子が見れれば、別であるが。知識社会はペーパーテスト的な学力をつけることだけでは不十分である。知識を使って何ができるかが問われていて、それが価値となる。

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