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「まともがゆれる」を読んで「まとも」について考えた

宿題もあって、色々な本を読み、色々調べてみているわけです。

例えば、認知症の人が働くレストランのこと。

高齢者が思っていた以上に増加していること。

相対的貧困が日本で広がっていること。

そんなことを考えながら紀伊国屋書店の棚を眺めているとキリがありません。そして、今回目に止まった本がこちら。

障害福祉NPO法人「スウィング」に集う、障害を持つ人・持たない人たちの「できないこと」にこだわらないエピソードと、心の栓を抜く、脱力しきった詩の数々。
誰かが決めた「まとも」を見つめ直し、ゆらしたりずらしたりすることで、それぞれの生きづらさを緩めるヒントとなる一冊。

障害者総合支援法に則った福祉支援施設を運営するNPO法人「スウィング」の代表・木ノ戸昌幸さんが書いた本です。

高齢者→認知症→社会における平常と異常と考えを進めているうちに、障害者に行き着いてしまいました。

「まとも」ってなんだ、ってことですね。

ここに至るには当たり前のように前振りがありまして、ここのところ「発達障害」という言葉に違和感を感じていたんです。

確かに、「生きづらさ」の正体として自分に障害があるという「答え」を得ると納得しやすいと思うんです。でも、なんだか「発達障害」という言葉を傘に「できないの答え」にしている人もいるんじゃないだろうかと。

能力の欠如と障害は根本的に違うものなのか、捉え方の違いなのか。

それがわからない。

わからないので、調べています。

調べるには本屋が一番。まあ、図書館もいいんですが、大抵ホットなネタはない。昔のことを調べるには事欠かないと思うんですが、新しい話題の本はないことが多いのが難です。

この本の著者は図書館が一番だとおっしゃいますが。

そんなわけで、紀伊国屋書店新宿店に行って、5階の棚で出会ったのが、この本だったわけです。

一読して驚きました。こんな活動をしている人がいたのか。

この法人は、既存の仕事観や芸術観にとらわれない自由な働きや表現活動を基軸とした事業を行い、「障害」「健常」「大人」「子ども」「男」「女」等あらゆる「枠」を超え、同じ時代、同じ社会に生きる人々が多種多様な価値観のもと、出会い、関わり、支え合うことのできる社会環境づくりに寄与することを目的とする。

本の中にも、詩や絵画が散りばめられています。

それが、すごくいい。

スウィングでは人の「働き」を「人や社会に働きかけること」と定義し、ときに「市民活動」、ときに「社会福祉活動」、ときに「ソーシャルアート」等と名を変えながら、さまざまな創造的実践を展開・発信しています。

いわゆるアウトサイダーアートという分野に分類されるものになるかと思います。

既存の芸術システムの「外部」=アウトサイドに位置づけられた人々の手からなり、また、そう認識するに足る独創性を持つと判断された作品。

アウトサイドと称されるのは、単に素人ということではなく、主に障害者によるものを呼びます。

実際、芸術的な訓練や影響を受ける環境になかった精神疾患(特に統合失調症)患者、知的障害者、交霊体験者、あるいは野宿生活者の作品から独創的なものが発見/再発見され評価されてきた。

今年も、こんな展覧会があったそうです。

説明が多いですね。

とにかく話を戻すと、障害者と呼ばれる人たちが持っている力を生かせば、何が生まれるかわからない。いや、そういう社会じゃないとサスティナブルじゃないかもしれない。そう思うのは、人間社会が高齢化して、いろんな力を生かしていかないことには、社会が持たなくなるとすれば、そこで活かすべき力は、高齢者であり、障害者なのではないかという仮説なのです。

「まともがゆれる」にアフロ記者の稲垣えみ子さんが寄稿しています。

その中で私が、なるほどと思ったのは、ここ。

なぜならこの本には、私が今切実に求めている、これからの長い(短いかも知れないが)「老後」を生き抜くための知恵が詰まっていたのだ。
 私は心の底からナルホドと思い、そして明るい希望を持った。

そうなのです。障害者と高齢者はある意味連続しています。

健常者と呼ばれる「普通の人」で無くなっていると言う意味で。

なんだよ「普通の人」って。そう言う気持ちになるのは、自分が年老いてきて、病気になったりして、もう「あの頃=普通」に戻れないと自分が思っているからでもあります。

かといって、稲垣さんのようには思えない。

弱くていいのだ。ダメでいいのだ。ダメだから人に救われるし、救われたら人を救おうと思うのである。こうしてダメがダメを救っていく。世の中を回しているのはお金じゃなくて「ダメさ」「弱さ」であっていいんじゃないか。

弱くていいではなく、弱くてもなんとかなるにはどうしたらよいのか。

ダメでいいのではなく、ダメとはなんだよ、と言い張ることができないか。

そう言う意味で、私の目は、どんどん、フツーとの境界線に向かっています。その先には、観測限界の向こうがあるのではないかと思うからです。

宇宙の向こうにある世界では、まともは別のものかもしれないですし。


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。