400文字の……(17)あだち充と野球の恣意性

 あだち充原作のアニメを見直していた。そこでふと思った仮説をつらつらと。
 あだち充の代表作の多くは野球ものだ。そして、フィクションでスポーツを描く時にはそこに恣意性――物語の都合で偶然性をコントロールできる――が入ってくる。あだち充は、この恣意性の問題を、会話と組み合わせることで消化しているのだな、と理解した。
 つまり野球のプレイの進行と会話を組み合わせることで、プレイがうまくいかなければコメディ的なオチ、プレイがうまくいけば登場人物たちも予想しなかった展開、といったふうに、狙っている恣意性を意識させずに物語の中に自然と取り込んでしまうのである。実はスポーツものという観点からすると、ここにあだち充の革新性があるのではないか。
 しかし、これはそもそも会話の組み立てがうまくないと成立しない。そしてあだち作品の場合それは、台詞のロジックのおもしろさ以上に、「間で飲み込ませてしまう場合が多い。あだち充は落語が好きだというが、おそらくこの「間」でクスリとさせているうちに、恣意性を受け入れさせてしまう呼吸の作り方がこそが、落語ルーツなのではないか。そんな仮説を思いついた。

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