周りの期待、自分への期待

僕は兵庫県加古川市の街なかで月一回、学びの場を主催している。
MANABIYA Kakogawa
僕が加古川に生み出したイベント。
なぜ始めたのか。自分の振り返りも兼ねて少しづつ書いていこうと思う。

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話は前後するが、正月に描いたまちづくりのシナリオ
実際に進めるにあたってスキルが全然足りないと思っていた。

・足りないスキルを補うため
そんな中、東京研修で得た知識やトップランナーの活動。その人たちの書籍を読み漁り、活動をネットでフォローをしていた。やっぱり東京は情報が集中していて、いろんな勉強会もありいい環境だな。と思っていた時、「公民連携プロフェッショナルスクール」の第2期生募集のお知らせを見つけた。半年間の勉強は、自宅での勉強を基本とし、毎週出てくる課題をこなす。そして、全国の受講生が集まるブートキャンプが2回。それなら、仕事をしながらでも体系的な勉強が出来ると思った。ネックはお金だ。大学では無いがそれなりに費用はかかる。僕は嫁さんに話をした。いきなり勉強したいという話された嫁さんが驚くのは無理もない。その中で、一生懸命話をした。自分がしたいことがあり、それに足りないものを補うため、勢いかもしれないが勢いの中でやってみたいこと。お金は大事だが、お金じゃないことは嫁さんも良く分かってくれている。その中で、僕を心配してくれて、会社と相談することを提案してくれた。

・自分が決めていた会社の居場所
僕は信頼する先輩に相談した、仕事の酸いも甘い教えてくれた先輩だ。先輩もびっくりしていたが、僕がしようとしている事は分っていてくれるし、何かを始めようとすることの熱意は察してくれて、「やってみたら」って言ってくれた。一月に行われた大阪での説明会も参加し、やる気は十分。あとは申し込むだけだった。申し込みには多少課題に対する論文提出があった。それをこなして来年度から辛いけど新しい日々が始まると思った。

会社にはどの程度話をしたかと言うと、その先輩と直属の上司になる課長だけ。誰に何を言ってもやるのは僕だし、ある程度自分の環境されあればそれでいいと思った。また、当時の僕は自他共に認めるほど会社では土地区画整理事業の計画に関する部門のエースだった。僕が着いていたポジションは土地区画整理事業の支援部門として会社が発足した30年以上前から、調査や計画に関して最前線に立ってきた人たちの場所で誰もが一目置く場所だった。

斜陽となった土地区画整理事業部門、だからこそ僕はそのポジションで事業を何とかしたいと思ったし、周りも僕に期待しているところは少なからずあったと思う。だから、これから僕はその位置で戦っていこうと思っていたし、そこが僕の主戦場になると心底思っていた。

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