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無報酬の見えないシャドーワークを考える

2月3日の日経新聞で、フィナンシャルタイムズの記事「「影の仕事」で生産性低下も」が紹介されました。米国を例に、労働者の生産性が低下している要因のひとつを「シャドーワーク(影の仕事)」に求めた内容ですが、この視点と結果は、日本を含めた米国以外のエリアにも当てはまると思います。

同記事の一部を抜粋してみます。

最近では、技術を駆使して企業が仕事を顧客に押し付ける事例が増えている。

米ハーバード大学の卒業生向け会報誌、ハーバードマガジン元編集者のクレイグ・ランバート氏は、2015年に著した「シャドーワーク 時間を費やす無報酬で目に見えない仕事(邦訳未刊)」の中で、かつては他人に任せていた数多くの作業を、今ではほとんどの人がデジタル機器を使って自分自身でこなしていることに焦点を当てた。

この中には、銀行とのやり取りや旅行予約、飲食店での注文、食料品の袋詰めなど、あらゆる作業が含まれる。駐車料金の支払いや子供の宿題の把握、テクノロジーに関するトラブル対応などに必要なアプリをダウンロードして操作することも含まれるのは言うまでもない。

ランバート氏も国際通貨基金(IMF)統計局などの専門機関も、こうした余分な作業が全体でどのくらいになるか正確な推定値を算出していない。だが、30年までに米国の仕事の4分の1が自動化の影響を大きく受けるとの予測があることを考慮すれば、その規模は間違いなく膨大で、しかも拡大しつつある(実際、ほとんどの仕事はある程度影響を受けることになりそうだ)。

ランバート氏は、「これまで他人に任せていた作業を自分の時間を使ってこなしていることに、驚かされる」と語る。

飛行機の出発が遅れたときに入ったコーヒーショップは、タブレット端末でしか注文を受け付けていなかった。30分たってもカフェラテが出てこなかったので、催促しようと思って周りを見回したが、苦情を訴えられる人間は見当たらなかった(隣の男性は40分も待っていると言っていた)。結局、コーヒーは飲めず、返金してもらえないまま搭乗した。

こうしたシャドーワークは人間の仕事を減らし、価格の引き下げにつながるといった見方もあるだろう。確かにそうかもしれないが、経済全体としてみた場合、効率的なのだろうか。

職を必要としていて、仕事を始めたばかりの労働者のほうがはるかにうまくこなせる作業を、高給取りの知識労働者である筆者が週に何時間も費やさざるを得ないことに問題はないのだろうか。

これは筆者が思い上がって言っているわけではない。ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ氏ら一部の経済学者が、シャドーワークは市場システムにとって外部不経済(社会への悪影響)となり、企業が労働コストを削減するために使いたくなる手段だと指摘している。

ランバート氏は、シャドーワーク増加の負の影響の一つとして、サービス業で初級レベルの仕事がなくなることを挙げている。

同記事の問題提起・論点を、3点まとめてみます。ひとつは、自動化等によって自身に発生している時間コストを認識するべきだということです。

自動化で恩恵を受けていると思っていても、実は相応のシャドーワークを引き受けてしまっているかもしれません。先日旅行社に行って家族旅行の手配をしてきました。私は普段、オンラインにて自分で旅行の手配をしているので、旅行代理店の店舗に行ったのは久しぶりでした。その時の感想は、「自分でやるより店舗に行ったほうが、結果的に時間もかからずはるかによい」でした。

行程ややりたいことがすべて決まっていて、手続きだけするのであれば、わざわざ店舗に行くよりオンラインによる自力で済ませたほうがよいかもしれません。しかし、今回のように、行き先をどこにするか、今回のイメージに近い行程はどれかなど、情報を聞いたり比較したりすることから始める状況であれば、専門業者に聞きながら、専門業者が使いこなしているツールでその場で調べてもらうほうが、はるかに効率的です。

改めて、店舗利用の価値を感じた次第です。これを、普段はああでもない、こうでもないと、自分で調べて手続きしようとしていたために、多くのシャドーワークを引き受けていたのだと思います。

2つ目は、何かにかかる時間が短縮できたとして、その代わりに失っているものがないかを想定すべきだということです。同記事には、次の内容の紹介もありました。

確かにテクノロジーは「摩擦」を減らすかもしれないが、それは何を摩擦と定義するかによる。米マサチューセッツ工科大学(MIT)のシェリー・タークル教授が、同氏の同僚が開発したセンサー駆動のアプリについて話してくれたことを筆者は思い出す。

このアプリによって、学者たちは他の人とぱったり出会って気をそらされる心配をすることなく、ある教室から次の教室に移動できるようになった。摩擦がなくなると同時に、互いの顔も見えなくなった。

自動化やアプリは確かに、多くの利点をもたらしている。だが、雑踏で人とぶつかったり注意をそらされたりすることで発生する感情のコストを、自分の情報に浸る孤立と引き換えにしてしまっていいのだろうか。

偶発的な会話や体験が創造性につながることは、よく知られているところです。コミュニケーションを遮断して、自分のやりたい作業に集中することは有益ですが、それによって失うものがある可能性を上記は示唆しています。

テレワークが普及した後で、偶発的な雑談がなくなったことの弊害への反省から、あえて雑談を行うためのチャットルームや雑談タイムを設定している会社もあります。それらも意味のある試みですが、場合によっては、関係者全員が出社したほうが結局得るものが大きくなるかもしれません。

3つ目は、2つ目までの要素を合わせた結果でもありますが、全体最適で考える視点の大切さです。

自動化によって職を失う人もいることに加え、本来その作業をする必要がなかった人に、作業の一部の負担がしわ寄せされるという同記事中の事象は、その自動化が全体最適になっていると言えるのかを問いかけています。

職場においても、「ひとつのアウトプットを形にしたが、それを生み出すための労力や負の効果も勘案すると、トータルでは活動としてデメリットのほうが大きい」ということはよくあります。

身の周りのシャドーワークのコストについて、もっと感度を高めてもよいのかもしれません。

<まとめ>
気が付かないうちに、メリットを上回るシャドーワークに取りつかれていないか。


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