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仕事と趣味の境界線

趣味は何ですか?と聞かれたら答えに困るかもしれない。やっていること全部が趣味なようで、趣味ではないからだ。この社会には、仕事と趣味の間に境界線がある。日本特有の文化らしい。その境界線は人それぞれで、お金をもらっていたら仕事だったり、趣味だからお金をもらわずに無償でやったりする。私も以前までは、仕事と趣味が明確に分かれていた。音楽活動は仕事であって、ライブもプロジェクトもない時はニートですなどとよく言っていた。趣味を仕事にする憧れみたいなものもある。自分の好きなこと=趣味でお金をもらえるようになると、やっていることは何も変わらないにも関わらず、急に境界線を飛び越えて仕事に変換される。だからその境界線を越えるために頑張って腕を磨いたり、越えないために趣味なので…と防御を張ったりする。皆んなが好きなことを好きなようにやってしまうと社会は成立しないから、好きなことは趣味として仕事ではない時間にやりましょう、という位置付けがされてきたのだと思っている。

私は今ではこの境界線をとても不思議な存在に感じる。コーヒーを淹れたり、観葉植物の面倒を見たり、料理をしたり、部屋のインテリアをこだわったり、海へ行ったりなどを日々しているけれど、私の中でこれらは趣味ではない。でも仕事として誰かに頼まれているわけでも、お金をもらっているわけでもない。では絵は?好き勝手に描いたり、誰かに依頼されたり、買ってくれる人がいたりいなかったりするけれど、私の中では趣味でもないし、仕事でもない。ただ好きなことってだけ。誰かに必要とされたりされなかったりするだけで、自分の中のポジションは決して変わらない。価値を決めるのは自分ではなく他者であって、例え他者がどんな価値を決めようと、私と絵の距離感を変える必要はないはずなのだ。この文章もそうだし、音楽もそうなってきている。

この距離感が少し分かりづらいかもしれないから、他のことに置き換えるとしよう。あなたって洗濯上手ですよね!と言われたとしたらどう思いますか?洗濯褒められたから仕事にしようとか、趣味なのでと謙遜したりは多分しないだろう。洗濯褒められたから仕事としてクリーニング屋さんやろう!みたいな、ニッチな線はここでは置いておいてほしい(笑)褒められたとしても、明日も明後日も変わらずただ洗濯をする。私の作品作りは、そういう存在になってきている。こういうタッチがいいんだなと評価を参考にすることはあっても、その評価によって自分と絵の距離感を変えることはない。

ないはずなのだけど、芸術ごとは特に評価されなければ、求められなければ、好き勝手にやっている分、自分は自己中心的な人間だと感じて罪悪感に苛まれやすい。だから趣味というシェルターに避難したくなるのだろう。私も最近まではそのシェルターを使っていたけれど、芸術ごとが生活に密着すればするほど必要なくなるのだと気がついた。洗濯をするように絵を描いて、コーヒーを淹れるように文章を書いて、海へ行くように曲を作る。だから観葉植物の面倒を見るのも、部屋のインテリアをこだわるのも全部ひっくるめて創作活動になっている。ここからここまでは趣味で、みたいに境界線を引っ張る方が難しい。つまり私が見つけたシェルターは分けるのではなく、生活の中へ混ぜていくこと。分けてしまうから必要とされないとやめたくなるわけで、生活の一部になってしまえば必要とされなくてもよくなる。明日も明後日も洗濯をするように、作品を作る。それを評価してくれる人が現れたらありがとうと受け取るし、現れなくてもまた作るだけ。その繰り返し。名前を付けてしまうと仕事だから、趣味だからとその名前に紐づけて、ただ好きでやっていることの意味を考え始めてしまう。きっとここに名前はいらないはずで、自分の生活の一部であり、生きていくために必要なものであり、明日も明後日も変わらない距離感でいてほしい、そう言ったただの日常なのだから。

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