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正常性バイアスで家族と関わっている

3泊4日で実家のある秋田に帰省してきた。
先日の日記に書いたとおり、堪能したし楽しかった。


ただ、家族との会話の中で、個人的な話とか、深い話とか、突っ込んだ話か、そういうの全然無かったなと思った。
そういうことは聞かれなかったし、こっちからもしなかった。

自身の話もそうだけど、例えばいとことか親戚とか、今どうしてるこうしてる、みたいなことも、伝聞で、断片的で表面的な情報を得るに留まっている。
たぶん、職場の仕事仲間のほうがまだ知ってることが多いと思う。

なんか、今さら改まって、深い話とかそもそもの話って、ものすごくしづらい。
他人や同僚くらいならまだ空気を壊してまで聞くことはできそうなんだけど、こと対家族になると、ものすごく空気を読んでしまって聞けなくなってしまう。

というか、そっち方面の思考に対して無意識のブレーキがかかっているような気がする。


ここ数年、帰省の度にそんなことをもやもや感じていたのだが、言葉にしてみると、概念で過ごしていないか、ということだなと思った。
家族との関わりや実家での過ごし方に形骸化している部分が多いのではないかと。

無意識で積み重なってきた共通認識や常識(と思っていること)の上に、生活が成り立っている気がしている。

だから、そもそものことを問いただすということは、家族の前提を揺るがしてしまうことになってしまうから、無意識的にしろ意識的にしろ、避けてしまっているように思う。


帰省でしているのは、大丈夫だという「確認」をしているにすぎない。

大丈夫、なんともない、いつも通り、今まで通り、という確認。
ほんとは問題を抱えているかもしれない、具合悪いのかもしれない。
(実際悪いのだけど)
でも、今大丈夫なんでしょ、うん、大丈夫大丈夫、今まで通り。

すなわち、正常性バイアスである。

まぁ、自分の家族との関わり方がそうであるだけだと言われれば、そうなんだけど。

せめてリズムを崩してみようという試みで、普段なら行かないだろう場所へ遊びに行くとかしてみてはいるのだけれど。。。


とはいえ、この形骸化を受け入れていて、日常が壊れてしまうのを受け入れたくないのだ。自分自身が。
だからひたすらに客観視を避けている。
あたりまえの空気の上に会話を成り立たせている。

こんな悠長なことが言えてる自分は、恵まれた境遇にいるんだろうなと思う。
当たり前が終わるときまで、この恵まれた境遇を享受したいと思っているのだろうな――

(今この話にオチはつけられないです)

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