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ファミリーマートのお母さん食堂はなにが問題なのか?

お母さん食堂が話題。こうした現実に対して、驚きや呆れ、怒りの声が挙がっているが、いよいよ「不寛容のエンパワーメント」が具体的な姿形を帯びて社会に出現してきたと感じる。

 現代社会ではジェンダーロールなどの「ステレオタイプの圧迫」に敏感になっている。高校生たちは「料理するのは母親だけですか?」という反例を打ち出して「当てはまらない人がいるから」破壊しようと主張する。つまり、ステレオタイプの母親(女性)像が圧迫に繋がっていて、こういう母親像を壊していけば社会の圧迫はなくなると考えているのだ。

 かりにお母さん食堂を通して、料理しない女性を誹謗中傷したり、嫌みを言われたり、ファミリーマートが「女性は料理をつくるべき」と主張するなら、それは性的役割の押し付けとして騒ぐのは理解できる。そこには“圧迫”の事実があるからだ。今回はそのような圧迫の事実はあるのだろうか?

 「事実はなくても可能性はある」その可能性を考慮して問題が起きる前に対処するべきだ。――などという「可能性」の申し立てはその可能性が匂うかどうかであり、今回はその匂いを感じ取れない人たちがこの活動に問題提起しているのだろう。なぜ“匂う人”と“匂わない人”がいるのだろう。

この辺をまず整理してみようと思う。

お母さん食堂とは?

お母さん食堂とは、「家族の健やかな生活」を想って作った、美味しくて安全・安心な食事と食材を提供するブランドです。お客さまにとって「一番身近で美味しくて安心できる食堂」を目指しています。

(ファミリーマートのサイト引用)

 このコンセプトを見る限り「一番身近で美味しくて安心できる食事」というイメージに“お母さん”という概念が結びついてネーミングしたと考えられる。冒頭に伝えたがファミリーマートのコンセプトに押し付けてるという事実はない。概念の連想とは「犬=4足歩行」という結びつきや「猫=かわいい」とさほど変わらない。当然、「私はお父さんが料理担当」「手料理とか食べたことない」「お母さんがいない」など自身の体験からこのコンセプトとお母さんの連想ができない人は存在するだろう。その人にとってこのネーミングはサービスとして失敗かもしれない。しかし、それ以上の押し付けは現時点では見受けられない。

概念+押し付け=社会的圧迫

「お母さん食堂」を通して押し付けられた事実があるなら、その事実を主張することを高校生たちにお勧めする。

無意識の偏見を助長させる

 高校生たちの主張を見ると「お母さん食堂」と名付けることは『無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)』と伝えている。ここでは、被害事実はなくてもそのイメージを持つこと自体の問題について考えていきたい。

 アメリカの社会心理学者ゴードン・オル ポート

偏見を「ある集団に属しているある人が、たんにその集団に所属しているからとか、それゆえにまた、その集団のもっている嫌な特質をもっていると思われるとかという理由だけで、その人に対して向けられる嫌悪の態度、ないしは敵意ある態度」と定義している。

今回だと

「一番身近で美味しくて安心できる食事」=「お母さん」という個人的な連想+その人に嫌悪・敵意を向けた態度を取っていたらこの定義上偏見に該当する。先ほども書いた通り連想に留まっていると考えられる。しかし、この概念を形成することで偏見が生まれる可・能・性は否定できない。

 ただ、これはファミリーマートが連想させている話なのだろうか?かりにも企業サービスである。確証はないが、ターゲットとなる対象者はそのような連想を既に持っていることに気づいたから、そのネーミングをマーケティング的に付けていると考えるほうが自然だと思う。少なくともお母さん食堂という存在を知る前からそのような連想は筆者も持っている。かりに、その連想を持つこと自体が悪だとするなら(無茶苦茶だけど)、「お母さん食堂」など特定の企業を批判するのではなく、そのような概念を形成していた人々を批判するべきだ。少なくとも、ファミリーマートが助長したという事実を提示して「その名前を使い続けることで新たに多くの人が<お母さん=料理する>という概念形成に影響を与えてる」という主張をする必要があると筆者は感じる。

 今までの話を整理すると、今回の問題はファミリーマートの問題なのだろうか?もしかしたら高校生側が被害を受けていないのに、被害を受けたと感じて無意識な偏見(アンコンシャス・バイアス)を通して企業に敵意を向けていないだろうか?このような活動が無意識の偏見を助長させていないだろうか?当人たちの意図や隠れた事実なども確認はしていないので、筆者自身も可・能・性の話に留まるが、高校生たちが疑念を覚えて発したように、筆者も疑念を覚えたので発したい。

被害者は加害者である

 ファミリーマートのサービス名を一つ取って署名活動する自由は否定しない。もしかしたら、「問題提起しただけで声が集まり話題になったのは社会が望んだ結果である」と考えるかもしれない。ここで書きたいのは主張するなという批判ではない。具体的に企業名を取り上げて「名前を変えろ」と指示してしまうことで生じる悪影響だ。「お母さん食堂」というサービスを掲げて、更に名前を変えようと呼びかけること、企業とフェミニスト問題を結びつけることで企業ブランディングに与える影響など、企業や社員に何かしらの不利益が生じてしまう可能性は当然ある。既に不利益を受けているかもしれない。しかし、今まで書いてきた通りファミリーマート自体が「お母さん食堂」で圧迫させている事実や、助長させている事実は本・当・にあるのだろうか?(その事実を伝えずに)このような活動に取り組む・参加する悪影響は想像できているのだろうか?

 主張する「活動力」は現代では賞賛される。事実はどうであれ社会運動で数字をつくることも賞賛に値するだろう。ただ、加害者側に立つ自覚をもって活動をはじめているのだろうか…この社会において「よいもの」とされてきたことの多くは「わるいもの」と表裏一体なのだ。

 ジェンダーロールや個人のあり方に対する問題意識が全社会的に高まっているなか、そうした考え方も一理あるが、かりにそれが実現した場合は「禁止のルール」をいまよりずっと多く設けることになり、またその運用もきわめて厳格化する必要が出てくる。これまでならこどもの戯言と流していた問題でも「はい。SNSで炎上したから、今日からクレーム電話受けて商品の生産ストップね」という、何気ない発言が社会に影響を与えるのだ。その時に誰かを苦しめる事実は確かに存在するのだ。「影響を与えた!やったー!」で済まされない社会が足音を立てて近付いてくる…

SNSの場に続々と登場する「〇〇すること禁止」という厳しいルールは、社会に圧迫されない寛容さを目指している兆候でもあるが、共同体として『共通理解をつくることは大きなリスク』と置く事で共同体としての機能を失い、不寛容社会に変容する兆候としても本ツイートでは示されている。

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