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期待をしないということ。

台風の影響が巡り巡って、私はサウナ施設にいるわけです、はい。

サ活5セットして、頭すっからかんにして、今猛烈に仕事してるのだけど、ちょっと忘れたくないことが脳裏をよぎったので、忘備メモ。(サウナの後は右脳が猛烈にのびのび動くので、大事なことが浮かんでくるのである)
 
この1週間は、なんかもう、色々な気づきと示唆に富んだ1週間でした。
私の大切な人たちが傷つき、癒えようとしているのを、横で見守り、ただ暖めるだけの週だったのですが。

「期待」の弊害 


話は簡単で、期待をするから失望するわけである。

期待してる、の主語って、「私」なんだよね。

フルセンテンスにしてみたらわかるのだけど、感じている時は意外と気づかない。でも、ちゃんと文章にすると、「私があなたに〇〇してほしいと/〇〇になってほしいと、期待している」、なわけでしょ。

相手は他人で、自分とは違うDNA・生い立ち・価値観・哲学を持っていて、どんなに近く感じていても、絶対に交われない。のに、「期待」というポジティブワードで覆って、実は自分が相手を思い通りに(自分の思う理想の相手の像に近づけようと)しようとしている。
  
期待している主体は、誰でもない、ただの「私」なのだということに気づけば、その勝手なこだわりや押しつけによるしんどさを手放すこともできると思う。

私は、これに気づくのにすごく時間がかかったし、他人に期待されてめちゃくちゃしんどかったくせに自分も大事な人に期待しまくっていたりで、その矛盾が辛くて「もう人間やめたい」と思ったこともあったくらいなのだけど、今はかなり手放せていると思う。

(でも、まだどうしても期待しちゃう自分はいて、そんな自分をメタ的に見ている段階。そう簡単に解脱はできないぜ~)

(ちなみに私が、社訓に「期待あふれる~」ってのが入っている会社で社会人生活をスタートした、というのはただの皮肉)

エゴの押しつけがしんどい

期待を持つことは、実はすごくエゴイスティックな行為なんだよね。

相手は、あなたの期待に応えるために生きているわけではないし、期待に応える義務なんてさらさらないのだもの。

でも、人はどうしても期待してしまう。
こうあってほしい、こういう行動をとってほしい、こういう成果を出してほしい。大事であれば、好きであれば、なおさら。

たとえそれが、当人にとっては「相手のため」という理由だったとしても、そんなの結局、エゴの押し付けでしかないんだよね。しかもその理由に、多くの人が「常識」「世間」を引用するから、すごくタチが悪い。

(ちなみに私もどれほど、大切な人に期待を押しつけて、苦しませたことか。期待に応えてくれないことにどれほど憤り、失望したことか。それが全部自分のエゴからくるものだと気づいた時、足元にぽっかり穴が開いて落ちたくらいの、衝撃を受けたんだぜ~)

結論:祈っていればいい

相手の幸せを純粋に願うなら、期待ではなくて、「祈り」でいいんだよね。これは子育てでもパートナーシップでもすべてにつながることだと思う。

私は今は、子どもたちの、パートナーの、愛する友人たちの、相談してくれたクライアントの方々の、とにかく、幸せを祈っている。私の思う幸せではなく、彼ら彼女らにとっての「幸せ」を。

そのために自分ができることをただやるだけだし、それは「言われたからやっている」「期待されたから応える」のではなくて、「ただ、自分がやりたくてやっている」。いつもそれをちゃんと感じられるように、そこだけは気をつけている。

妻だから、母だから、女性だから、社長だから、カウンセラーだから、コンサルタントだから、友達だから、ではない。ただの「私」が、やりたいからやっているのだ。


幸せになる道筋は百人百様で当然だし、それを私が理解できるかできないかなんて些末なこと。理解できなかったとしても、私が彼ら彼女らを大切に思っていることに何の影響があるというのだろう。

そんな考えがいつも浮かんでは消えているのだが、サウナ効果で脳にとどまってくれたので、やっとこ言語化してみた。まだ粗いし、それこそ先人たちがずっと前に通り抜けた道なのは知ってるけど、でも今の私のありのままの気づきとしてメモ。

読んでくださってありがとうございます。力が抜けたり元気が出たり、人間ってそんなもんかーと思ってくれたら嬉しいです。