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できるようになるまで、こつこつ、やるということ。

4週間のサバティカル休暇をとっています。
最初の週が終わり、色々気づいたことがあるので自分のために言語化しておこう。

ちなみにこの1週間、やはり少しはPCを開かねばならないこともあったんだけど、それでも、毎日時間とタスクに追われ分刻みで動いているのと比べると、驚くほど心身が楽。
ふだん、お客様の人生や経営を支えるという重責を果たすべく、知らず知らず緊張しているんだなぁと、ひるがえってわかる感じ。
いつも頑張ってるなぁ、私。

 

息子が定期考査期間中なので、彼が苦手意識を持つ英語を教えた。
改めて、「相手が楽しく学べるようにわかりやすく面白く教える」「テンション高くテンポよく取り組めるようエンパワメントする」という自分のエンターテイナー的要素に気づく。
普段から研修でもワークショップでもそうやってやってるなぁ、と。
最初はしぶしぶだったのに途中からノリノリになり、一気に試験範囲を終わらせられた息子が可愛すぎた。

  
そして、英語そのものではなく『勉強の仕方』を彼に教えているときに気づいたことが、もう一つ。

   
私は、できないことをできるようにするプロセスを楽しんで、これまで生きてきたんだな、ということ。

私は、「やりたいのにできない」ということがとても嫌な子どもだった。
誰かと比べてどう、というのはなくて、「自分が」やりたいのに、満足できるレベルでそれをできない、というのが、すごく嫌。


もちろん、どう頑張ってもできないこともある。
でも、自分が「これはやりたい」「できるようになりたい」と思ったら、とても地道に努力してやれるようにしてきたんだな、ということに、今さら気がついた。
(やりたいことのためにする努力を、努力と思ってなかった)
(なので努力ができない人だと自分のことを思っていた)

 

小1からピアノをやっていた。やりたくて母に頼み込んで習わせてもらった。
「弾けないところを弾けるようになるまでひたすらゆっくり繰り返し、ゆっくり弾けてからだんだんスピードをあげて、本来のテンポでスムーズに弾けるようになり、気づけば暗譜している」
というやり方が、好きだ。

ピアノの発表会に何度も出てきたけど、本番で緊張せずにいいパフォーマンスをするには、いかに地味で地道な練習を、全く躓かなくなるまで、体に染み込ませてきたか、にかかってるんだ、ということを、それこそ体で理解してきた。

ゆっくり弾けないものを、速く弾けるはずはない。
地味で地道な練習の先に、できるようになった時の喜び。
自分で自分の変化を目撃していく嬉しさ。
先生に褒められること、お客様に拍手をもらえること、は、おまけみたいなものだ。

   

これは直近のダンスのレッスンでも、改めて感じた。
毎回1時間、マンツーマンで、めちゃくちゃゆっくりと、体の使い方を細かく細かく確認し指導修正されながら、踊る。
プロのこういう教え方が嫌な人は多い。特に”社交ダンス”がやりたい人には嫌がられる。なぜなら曲で踊らせてもらえないから。
でも私はこの指導方法がめちゃくちゃ好きだ。

速く踊った方が誤魔化しがきく。でも1秒の動きに10秒かけるくらいゆっくり動くと、体の正しい使い方がわかっていない、ということははっきりとバレる。
それをひとつずつ先生に直され、解説を受けながら、こうですか?こう?と食い下がりながら、少しずつ近づいていく。

正しく体が使えるようになると、ダンスは圧倒的に違うものになる。
よく、1+1が2ではなく3になる。というけども、そもそも、自分が1ですらないということに気づき(構成要素はたしかに1だけど、形として1になってないというか)、1としてひとりで立って踊れるべくトレーニングし、その上で先生と合わせられるようになると、それまで2だ、3だと思ってたものが全く違って見えてくる、という感覚。。。

まだ、ゆっくりでなんとかかんとか、できるといえるラインに立てはじめてる?というレベル。
もちろん、曲のスピードに合わせて踊ったときに、ゆっくりでできたときと同じレベルでは踊れない。全く。
全然、到達できていない。
だから、楽しい。
まだまだ、できるようになれる嬉しさが、たくさん、この先にあるからだ。


できないことを、地道に地道に向き合い、できない自分に悶えながら、できるようになっていく。その楽しさが好きなんだ。

レッスン動画のキャプチャ。ガチンコです

読んでくださってありがとうございます。力が抜けたり元気が出たり、人間ってそんなもんかーと思ってくれたら嬉しいです。