みにくいアヒルの子4
前回の話は、小学校四年生の時に転校した先で結構な、イジメにあいつつも健気に?笑
登校していた日々の話でしたが、次の春
小学校5年生になり、クラスも変わり、担任の先生も変わりました。 その時の担任の先生が、嶋村先生という27歳の女性の先生で 私の大学までの学校生活の中で出会った3名の「恩師」の1人です
最も影響を受けた方でした。
先生の授業は独特でした。算数や理科は仕方ない。
けれど、国語の授業で 「あなたはどう思いますか?と聞かれて答えられないのはオカシイ」と、 全員挙手しての授業への参加を促しました。
答えられない、挙手できないと《授業に不参加》と見なされ床に正座。 結構それがきつくて 小学生あたりの、独特の、わかってるけど、発言するのは恥ずかしい…を完全に吹き飛ばし、いきなり全員参加の活気ある授業へ
確か、クラス単位の学力平均も、どどどーんと上がったはずです。
生徒一人一人の個性を見るのも天才的で
一人っ子でマイペース。リーダー的性格皆無だと思っていた私に学級委員長になるよう、ゴリ押し 笑
人前に立つなんてとんでもない!と思っていた私はひたすら固辞。 できません!と固まる私に、 「やってみないでそんなこと言うの?」 「皆が、あなたがいいと言ってるその信頼はどうするの?」と半ば脅し (T . T)
そんなこんなで、逃げられなくなり、引き受けました。 結構合ってました。学級委員長 笑
そこからは、なんとか委員に立候補して高校までずっと いろんな役員をやりました。
以外に「やればできる子」だったんです 私 笑
ものすごく真剣で、厳しいけど、生徒一人一人に対して、本当に愛のある先生で、他のクラスからも羨望の的。
雪の降った日限定で、先生が甘酒を内緒でうちのクラスだけ作ってくれて(雪国ではありません。ここは横須賀 笑)先生からお財布預かって校門を抜けて近所まで甘酒買いに行くのが嬉しくて…
数人が朝礼で挨拶ができなかったと、連帯責任で、クラス全員、 平手打ち…今だと問題ですよねー、でもみんな納得だったし、何よりクラス全員を打った先生の手が真っ赤に腫れてて、全員、なにかしら感じました。そう言う時代だったし、そんな感受性もあったのです。
クラスには、ダウン症の宮川くんと言う男子がいて、必ず誰か1人が彼の世話係に1学期中つきます。体育だから着替えるよーとか、美術だから移動だよーとかって連れて行くのです。 私も彼のお世話役になりました。
宮川くんはずーっと絵を描いていて、ぼーっとしてるけどいい子で、みんな自然にクラスの仲間だと思っていました。
そう言う雰囲気作りをして下さったのも先生のお陰でした。 運動会になるとクラス対抗の種目があります。一生懸命練習してても、 正直、のんびり屋の宮川くんがいると勝てません。
でも、誰も彼を外そうとか、彼のせいで…とか思いませんでした。
本当に、ごく自然に、ダウン症の彼も、みんなの中にいました。
この1年間の生活で私の性格はガラッと変わって、 外向的で、すごく活発になったのです。
小さな、自信の積み重ねがそうさせてくれたのだと思います。
私に、最初の自信と、前に出る勇気と、違いがあっても仲間だと思える心
それを教えてくれた嶋村先生は、やっぱり今での私の生涯の恩師です。
翌、6年生も運よくクラスはそのまま持ち上がったのに、 私には別れが…
父が会社に通えない事と、私の進学予定の学校までがやはり遠すぎる事(ほんと不思議すぎる、うちの両親の決断。家建てる時にわかってたやん??)(^_^;)
私をなんとしてでも受験させたかった母マリーは、横須賀からはあまりに遠いと言う事で、6年生の二学期までお世話になり、3学期のみ、元の駒沢の、元の担任の先生のクラスに出戻らせると言う強行手段に出るのでした…
別れの時、クラスのみんなが、画用紙で一枚づつ絵と贈る言葉を書いてくて宮川くんは私の父の会社の飛行機の絵でした。たった2年間の横須賀生活。
うち二学期間はイジメに苦しみ、後の1年余は、人生を左右される出会いと経験の2年でした。
そして、念願の学校に受かり、夢いっぱいの都会の学校生活が始まると思いきや…オタクな中学生時代が待っていたのです…
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