尋ね続けなければ生きれないのかも
今までの行動、思考の仕方ではこの肉体を使うのは無理だとわかってきた。
京都の撮影仕事で、昔のように夢中になり4日間連続で撮影を続けた。
結果的にその後の3日間足が使い物にならないくらい、両足激痛で過ごすことになった。
そして、何を食べるかを尋ねずに食べたラーメンが濃厚すぎて、2日間下痢をして散々な撮影旅となった。
どれだけ自分で判断した?
何度尋ねた?
何度心の広がりを感じた?
多分95%以上、自分の判断、昔の言動だった。
結果、僕の得意の自らを鞭打ちするような仕事をしていて、気づいた時にはボロボロになっていた。
尋ね、聞き取り、従わなければ、無理していた仕事ぶりの癖が出てしまう。
この肉体には、その無理はもうできないらしい。
この先、本当に尋ねずには生きていけないのかもしれない。
今までのやり方では、この肉体はもう扱えないのかもしれない。
尋ねなければ、心身ともに苦しみが押し寄せてくる。
旅の途中、何度か思い出した のり子さん の言葉。
こんな事を言ってくれていた
「仕事のために、仕事をするんじゃない。」
「撮影のために撮影をするんじゃない。」
「心の奥に押しやられた存在論的罪悪感、無価値感を浮き上がらせて、聖霊によって浄化され、癒やされるために、それら全ての出来事がある。」
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