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私が小学校の同窓会に行かない訳

 去る6月20日に 何年振りかの高校の「音楽クラブ」の同窓会をした。
8名の出席だったが、青春の音楽でつながる絆は何にも増して強かった。 主にコーラスだったが、1年に1回の「秋の文化祭」に参加することになっていた。    
1年生の時は、私たち学年の数名で2部合唱した「歌の翼に 君をのせて …」は忘れられない曲になった。

2年生は独唱だった。私は当時から高音が苦手だったので、なかなか曲がきまらなかった。かろうじてイタリアのオペラ「ニーナ」を与えられた。  
死んでいくニーナという女性に向かって歌われる哀愁をおびたその曲も途中で突然明るい高音に転調する部分があった。しかし、私はどうしてもその部分で声が裏返ってしまうのだ。
文化祭当日もそのことが心配だったけれど、私は腹を決めるしかなかった。
当日、講堂の壇上にあがり「ニーナ」を歌い始めた。そして、いよいよ転調の部分に入った時、マイクの”Ki~nn!”という高音の雑音が入ったのだ。
私は辛うじて裏声がその音で目立たなくなっていた。
歌い終わって、壇上から降りてきた時、1年後輩の△君が ニコニコしながら「マイクの調子が悪かったんで… けど、裏声目立たへんかったなあ」と言ってくれたのだが…
今 思い返せば、機会操作が得意だった△君は 私の裏声に合わせて"ki~nn!"という音を出してくれたんではないのか?という疑問を持ったけれど、
同窓会で確かめることはできなかった。というのも△君はもう亡くなっていたのだったから…。

3年生の時はオペラ「牛若丸」をやった。「牛若丸」のマドンナは ソプラノのぽっちゃりP子で、鞍馬山で黒い装束の男子生徒は天狗の役で立ち回りもあった。なかなか充実したクラブだ!と、今でも感心する。


 このクラブで一緒になった6名と1年先輩の3名とが特に仲がよかった。 初恋の云々もあったが、とにかく 歌ってうたって夜間生徒が登校してくるまで歌っていた。
真っ暗な堀川通を 私たちは又校歌をハモって帰り、角の「中華そば」というすすけた赤い暖簾をものともせず、くぐり一杯の中華そばに夢中になった
まさに青春だった。
一度コンクールに出たけれど、合唱としての評価は低かった。が
「団員がとても楽しそうに歌っている」との評価が付け加えられた。
私たちは満足だった。
そのお陰か、中学生から始まった私の反抗期は 嘘のように収まっていた。

その仲間が先輩と合流した。

その中で私はW子ちゃんに
「Y子(私)、小学校の同窓会には来たことないな!」と言われて
「私5年と6年生持ってもらった先生、嫌いやねん」と答えた。
「そやな、私らアンチ族やったもんな」とW子が応じる。
そこで、私は 
「そやねん、あの時クラスが2分されていたやろ?私はアンチクラスやったせいか、ある時先生とヒイキされてた女子となんでか、3人になった時があってな、その時なんでそんな話になったんかわからんけど、ヒイキされてた子が『わたし、秋が好きや』と言わはったん、そしたら、先生が『Y子はどの季節が好きやねん?』と聞かはったんで『わたしは、春が好き』と言うたら、先生が『春の好きな子は 勉強 出来へんねんで』と言われ、それで嫌いから大嫌いになって、小学校の同窓会なんか行くもんか!って、行かへんね」
それを聞いていた先輩が 先生のセリフを聞いた途端、
「そら、あかんわ~」と言って、のけぞった。
「私、今まで誰にも言わへんかったけど、今初めて みんなに言うたんや。先生は2,3年前に亡くならはったんやろ? 可愛がってもらってた人は「##会」まで作ったはって、毎年案内は来てたけど 絶対行かへんかったこんな話 今まで誰にも言わへんかったんやけど、言うてしもたわ」
W子ちゃんはその時何にも言わず「ふ~ん」と納得したような顔をした。

私の小学校の同総会嫌いは なぜだか 有名になっていたようだ。 どうせあれこれと推測されたことが誠しやかに 信じられていたかもしれないけれど、私は無視して本当の理由を言わなかった。いや、言う機会がなかったからで、思わぬ機会に恵まれたと言っていいかもしれない。

私がどうして、アンチになったか?

先生にヒイキされる子の母親はPTAの役をしていた。
家がお金持ちだった。
ヒイキされる子は可愛い女の子だった。
いつも、きれいで可愛い洋服をきていた。
先生に素直だった。

わたしは この点において全て条件を満たしていなかった。

しかし、私という子供心から見ると、

先生は 勉強の出来る子を可愛がった。
ハイハイ生徒と先生を慕う子を好んだ。
そして
わたしの最も嫌な気もちになったのは
「参観日だけ面白いことを言いどっと笑う母親たちの方を見てニヤニヤ笑う先生」が 大嫌だった。

正義感の強い子供の心は 大人の不純さを はっきり見抜く。

私は 子供の頃、相当正義感や純なものを求めていたようだ。

中学生になって、反抗期を迎えた頃、母親からこんな言葉を聞かされた。
清水に魚住まず
と言うてな、全く濁ってないきれいすぎる水は 魚も生きて活けへんのやて
多少とも濁っているくらいの方が 魚も生きていけるんやてえ」と。

この世では 純粋すぎる心では 生きていきにくいことを 私は身をもって体験してきたようである。


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