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「あ、これみんなに知ってもらわんと、ただちに。」

私は、弊社ヘラルボニーの双子のように、こう何かしなくちゃとか使命感みたいなものは全くなく、ただ好奇心に動かされ、波のりを楽しんで、動いているわけですが、今日、アトリエやっほぅさんのアーティスト、島津さんと国保さんの絵のアーカイブ撮影にでかけ、彼らの作品を50以上みたとき、「あ、これみんなに知ってもらわんと、ただちに。」と思ったわけです。

この気持ちを、エゴだなんて言葉にカテゴライズする、そう感じる人を私は悲しいひとだなと思う。面白い本を読んだとき友達に知らせるような、めっちゃ笑った漫才をみたときこれ面白いでって言いたくなるような、あらゆる良いものを見た時知った時聞いた時のテンションと全く同じだった。あーこれ好きな人絶対いるやんっていう。

障害があるからその人の意思を尊重しなくちゃっていう意見ももちろんそうなんだけど、世の中にあるたいがいの良いものは勝手に広まっていくやん。誰かがこの絵すごい!歌すごい!景色すごい!って言うやん。それでいいやん。なんで、それが「障害者」とカテゴライズされる人のアートだったらその人の意思だとかどうとかの話になるんだろうか。良いと思われるものは広まる。広めたくなる。これが、世の定めや。(もちろん色々権利とかあるのも、承知の上ですので)

この絵は作品であると、言い切るべきだ。本人に意思がなくとも、他人が良いと思った瞬間に、この絵は作品になり得る、と思った。乱暴な言葉かもしれないけど、強く強く思った次第。

そして、何かしらのカテゴライズが、その絵の意味や価値を産むのではなく、その絵を良いと強く思う人、思える場所をつくることが、その絵の意味と価値を産むのだと改めて思った。エッシャーが、メスキータの絵を心から良いと思って勝手に守った。だからこそ、メスキータの絵は現代でも評価されていて、文化になった。そこにメスキータの意思があったかどうかなんていうのは関係ない。そういうことか。そんなことを思った。

そんでもって、原画の力はすごい。クレヨンはクレヨンのあの匂いがするし、手にまとわりつくし、描いた本人も近くにいるし、全部含めて良いなって自分は思ったわけだから、この良さは見た本人にしか分からんのやなって思いました。忘れたくないのでメモっておきます。メモ的日記2019.09.11

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