清潔な生き方
「清潔のルール」の違い
「お互いO型でよかったよね」
結婚してから5年、何度言ってきたことか。私たち夫婦にとって、この言葉は、「清潔」という攻撃から守るための、盾みたいなもの。簡単に言えば、「正当化」。
きっとお互いが、これまでの人生で「清潔」をあまり意識してきてこなかったというのが正直なところ。素直に白状しておくと、妻よりも私の方が、確実に「清潔」に対しての意識は低い。(妻に無理やり書かされているのではない)
そんな私たちは、結婚を機会に「清潔」を初めて意識するようになった。
というより、「清潔のルール」の違いを感じた。
「まな板は、食材によって分ける」
「靴下は、裏返してから洗濯機に入れる」
「鍋の箸と食べる箸は分ける」
ほかにも、挙げだしたらきりがない。こんな小さなことで、何度も、喧嘩をしてきた。こうして、文字にしてみるとなんとも恥ずかしい限りだ。
「清潔」を意識してこなかった二人が、一緒に暮らすことで、それぞれの「清潔のルール」があることを知って喧嘩を繰り返しながら、「清潔」を少しだけ、意識するようになっていった。これが私たち夫婦の「清潔」への意識の時系列である。
受け継がれていくルール
一緒に暮らすことで知った「清潔のルール」の違い。これまで、「清潔」には無頓着で、意識していなかったはずの二人が、「清潔のルール」の違い、もしくわ「清潔の価値観の違い」によって、意識するようになり、対立・喧嘩したりしている。
これって、世界を見れば、同じような経験をしてる人って結構いるのかな?と思うと、めちゃくちゃ面白い。世界中の日常がコントになっている。「清潔」は、そこまで気にしてないけど、「清潔」へのちょっとしたルールの違いで、争いになる。
こんなコントのような喧嘩の後に気づいたことがある。「清潔のルール」は、たいてい、お互いの実家でも同じルールだということ。私のルールではなく、私の家族のルールだったことに驚き、そして、なんか笑えた。
数年前、新しい家族として、両家共に「一緒に歩いて育みあう」と誓ったはずなのに、「清潔のルール」を通して、「家族の繋がり」から生まれた、価値観の違いで喧嘩していたことに気づいた。アホすぎる。その繋がりを一緒に育みあうって思ったら、心の底からどうでもいい争いだったと気づいた。そして、「清潔のルール」の違いで喧嘩することは少なくなった。というのも、本当の目的を思い出すことができたからだと実感している。
家族の「清潔のルール」の本来の目的は、シンプルに「家族がより幸せで笑顔でいること」。これは、きっと、よく考えたら、みんな同じなんだと思う。しかし、いつのまにか、「清潔のルール」を守ること、作ること、相手に納得してもらうことが目的になってしまっていた。
コロナが教えてくれたこと
令和にはじまった、世界を震撼させたコロナ。コロナによって、「清潔」の意識が、私たち夫婦だけでなく、親族、会社、社会、国と広がり、この地球の問題として意識されるようになった。世界中が、私たちの命を守るために、「清潔のルール」、「新しい生活様式のルール」を作った。
「マスク」
「ワクチン」
「ソーシャルディスタンス」
まだまだ、たくさんある。
このルールが原因で、世界にも、争いが起きてしまっている。私たち夫婦に起こったアホすぎる喧嘩が、コロナをきっかけに、世界中で起きている。
というより、浮彫になったといった方が、正しいのかもしれない。
「世界のみんなが幸せで笑顔でいること」
今、世界がこの目的を忘れてしまっているのかもしれない。忘れているというより、目の前の事で、見えなくなっているだけなのかもしれない。
私の言うことが正しい。
あのひとが正しい。
これは間違え。
こうしたほうがいい。
私たちは、知らずの内に、「私」が正しいと思いこんでしまう。そして、そのことを押し付けてしまう。
何が正しいかなんて、ホントはどうでもいい。目的はこれなはず。
「世界のみんなが幸せで笑顔でいること」
コロナが私たちに教えてくれているのかもしれない。
本当に「清潔」にした方がいいのは
ルールや価値観ではなく、「心」や「生き方」だということを。
未来に贈る「清潔な生き方」
世界のどこかで苦しんでいる人がいたら、助けてあげたい。お腹を空かせた動物がいたら、何か食べさせてあげたい。小さな子どもを見たら、その子の未来を輝かせてあげたい。
「この地球のすべての命が幸せに笑顔で溢れてほしい」
本当は、心のどこかでみんなが当たり前に想っていること。でも、気が付けば、私たちは、「私」を優先してしまっている。そして、本当の目的を見失ってしまい、争いや対立を生み、みんなが悲しむ。
このことを自覚して、本当の目的を忘れないように、反省しながら、みんなが笑顔で溢れるように、次に活かしていく。この生き方が、今、私たちにとって、大事なのではないか?
「清潔な生き方」
無意識に、「私」を優先してしまっている私たちの心。
この心の泉は、透き通っているのか?濁っているのか?
答えは、明白。
この濁りを清潔にし続けようとする生き方が、みんなの幸せのはじまり。
私たち家族は、「清潔のルール」として、「清潔な生き方」を一緒に歩いて育みあうと決意し、歩んできた。
すると、世界を震撼させたコロナも見え方が変わってきた。
コロナも、この地球に住む同じ仲間。
一緒に、幸せに笑顔で溢れることはできないのか?
「コロナと人間」ではなく、地球に住む同じ命。
人間から見たら「コロナの感染力」だけど
コロナからみたら「コロナの再生産力」
この違いが「清潔な生き方」のはじまりなのかもしれない。
コロナも生きるために、必死に、進化し再生産しようとしている。
コロナの感染力にどう立ち向かうのかではなく
コロナと一緒に、共存できる、免疫力・治癒力を高めるという生き方を
みんなで目指し、未来に贈ることが大事なのではないか?
そうなれば、もし、また近い未来、新しいコロナが誕生しても
共に生きることができる。
「清潔な生き方」を目指し、家族と一緒に歩み育みあってきて、なんとなく腑に落ちてきたものがある。
それは、「清潔な生き方」というのは
未来の子どもたちが幸せに笑顔で輝くための
「種」を巻くという生き方だと実感した。
未来のみんなが笑顔で溢れるという視点を忘れずに
素直に正直に誠実に生きる
その先に、争いや対立のない
みんなが生き生きと輝き、笑顔で溢れる未来が待っている
良かったら、そんな「清潔な生き方」を一緒に歩み
地球のみんなが笑顔で溢れるような「道」を未来に贈りませんか?
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