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夏組と自己肯定感

MANKAI STAGE 「A3! 」ACT2! ~SUMMER 2023~

誰かが言っていた。秋が始まるまでは夏だって。
ということで、夏単の感想かきますか。

と言ってはみたけど進まない。
なんだろう、腹落ちしないときは言葉を探して納得できるようにするのだけれど、この夏はすんなり”夏の終わり”を感じてしまった。だから、夏組に嫉妬したことを書く。もうすでにそれは感想ではないけれど、良しとする。私が許す。

夏組ってわかりやすく、『あなたはそのままでいいよ』と言う。それって、とても眩しくて羨ましい。
特に椋の王子様になりたいとこぼし、叫ぶ歌は、もう目を逸らしたくなるほど眩しかった。そんな他者からの支えというか共感と、これまでの自分を振り返り、自分で自分を認められたのであれば無敵になれるだろう。その強さと勢いが自分にはなくて羨ましい。

(以下、迷走気味。椋のバクステあけてないのも多いため、無理だと思ったら閉じてください。)

自己肯定感というものは、ありのままの自分をかけがえのない存在として肯定的に認めることをいう。
細かく分類すると
・自尊感情…自分には価値があると思える感覚
・自己受容感…ありのままの自分を認める感覚
・自己効力感…自分にはできると思える感覚
・自己信頼感…自分を信じられる感覚
・自己決定感…自分で決定できるという感覚
・自己有用感…自分は何かの役に立っているという感覚
個人的にこの夏単時点の椋はどれも低めだと思っているが、あの王子様を経験した今は、本来の素敵な彼になっている。

ただ、立川の前半に初めて観劇したときはそこまでには思えなかった。人から与えられる言葉だけで、そこまで自信を持つことができるのかと。
捻くれている自覚があるから、その言葉がおべっかとか、その時相手を励ますためにただ口から出た言葉として捉えてしまったのだろう。あの夏組が言っているのにも関わらずだ。そして、強調されているからなのか、自信という言葉にも引っ掛かりを感じた。
自信というのは、条件付きで自分には価値があると信じている感覚を示すことが多い。この場合、あの女の子が王子様だと認めてくれるから、九門が言うから、夏組が言うから自分は大丈夫なんだという条件がつけられてしまう。
それでは、そう言われなかったとしたらどうなる。夏組がいなかったら椋は素敵ではなくなるのか?そうではないだろう。

何度か観劇しているうちに、椋が歌うときに下手で待機する夏組や、視線をしっかりと合わせて話しかける九門などをちゃんと見る余裕が出てきた。そして、かけられた言葉を自分の中でかみ砕き、覚悟を決めたような表情をしていく椋を見ると、ただの自信じゃないなと思えるようになっていった。

そして、こう思った。『夏組の向坂椋という認識が強いのであれば、夏組からかけられる言葉は、もう他者の言葉という領域ではないのでは。』
自分が自分を認めるためには、本来、”自分が”肯定的に認めることが必要だ。友達と表されることが多い夏組ではあるが、時にはぶつかってまっすぐにお互いを知っていく。そうすると彼らは、彼ら同士の自己の境界が曖昧になっている可能性がある。それならば、言葉の効力というのは、ただの他者よりもより身近に、自分の言葉のように受け取ることもできるのではないか。
夏組からの言葉は、ありのままの椋でいいという自己受容感に。女の子とのエピソードは、自分には価値があり、できると思える自尊感情と自己効力感に繋がったのではないだろうか。その後押しがあり、椋自身が素敵な自分を認めてあげられたから、あんなにも素敵な王子様になることができたのだ。

原作のほうでは、意外とすんなり自己肯定できていた気がする。あ、それで出来ると思えるんだと驚くくらい。しかし、夏単では周りと目を合わせ、大粒の涙を毎回流し、「王子様になりたい」と叫ぶ。十座と顔を見合わせこくこくと頷き、そして吹っ切れたように笑う椋がいた。だから、こんなにも回りくどいことを考えてしまったのだろう。”自信を持つ”という便利な言葉があるにも関わらず。
それほどまでにこの夏で好きなシーンだった。SINOBIのほうに殴られる準備はしていたけど、王子様は対策も何もしてなかったから、もろに食らってしまったという事にしておく。
そして、私もそんな自己肯定感が欲しい‼ 

他にもよかったところはいっぱいあるのに。海の演出とか、三角とか、一成の誰か助けてとか、三角と一成の屋根の上とか、めちゃくちゃ笑える日替わりとか、ガイさんのワンステージとかぶっ飛んだ十座とか…キリがないけど。それらをまとめると「夏組サイコー‼」ということで。
もうすぐ秋が始まってしまうので、立ち向かえるように準備運動をしておきます。

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