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「この世界の片隅に」原作解説(こうの史代)

映画は白木リンがらみの話の大部分削っています。解釈もところどころ変えています。映画の解釈としては他の方にお任せします。この欄はあくまで原作の解釈です。

星空

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冒頭、広島市内で浦野すずは、人さらいのばけものに捕まります。持っていた海苔を切り抜いて望遠鏡に貼り、星空を作って化け物を眠らせて、いっしょに背負われていた北條周作と窮地を脱出します。

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末尾、最後から2ページ目、周作とすずの夫婦は、戦災孤児を背負い、星降る呉に戻ってきます。つまりこの物語の最初と最後は、対になっています。

ばけものとすすカップル=すずカップルと孤児
背負われるすずカップル=背負うすずカップル
作った星空=実際の星空
眠るばけもの=眠る孤児
ばけものにキャラメルを与える周作=孤児におにぎりを与えるすず

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冒頭すずは周作がばけものにキャラメルを与えるのを見て驚いていました。
自分がキャラメルがほしかったからです。(ちなみに周作はここで、すずの荷物を担いであげています。地味にえらいですね)

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最後には、すずは孤児におにぎりを与えます。成長しましたね。

物語の中での主人公はたいてい、成長します。ご多分にもれずこの物語も、すずの成長物語です。

北條家

すずは北條家に嫁にゆきます。北條家は父は軍事工場の技師、息子は軍法会議の録事(書記)です。ようするに(呉は軍港だから当然ですが)軍事関係者です。

どうしても北条時宗を連想しますね。外に打って出る役目ではなく、内地で敵が来るのを待ち構えています。そして、北条政権というのは後世の政権のように、治水だの通貨発行だのする政権ではなく、基本司法のみの政権でした。

ここで北條家の名前を見てみましょう。

父 円太郎
姉 径子
弟 周作
つまり、円と直径と円周です。

母 サン
孫娘 晴美
孫 久夫
養子 ヨーコ

Sunと「晴」美と久夫(ひーぼう)とヨーコ(陽子)、
つまりお日様なのです。

まあるいお日様、アマテラスですね。
苗字は武家政権を連想させるもの、
名前は天皇家を連想させるもの、
つまり浦野すずは「日本」に嫁に来たのです。

浦島太郎

浦野、という苗字からしてそうですが、「日本」に嫁に来たすずは、浦島太郎の一族です。闇市に砂糖を買いに行って、遊郭に迷い込んだとき
「ここは竜宮城かなんかかね?」と言います。

当然乙姫様は白木リンです。鈴の音がリンですから、
(すずは自分は代用品じゃないかとむくれていましたが)
すずとリンの二人はもともと近い存在です。

すずが嫁入り先で生きていこうと決意したとき、玉手箱が開き、煙が立ち上ります。故郷は廃墟になったのです。

きのこ雲

竹取物語

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隣組の回で、すずは竹を振り回しています。無意識に周りをぶんなぐるすず、怖いですね。

月

空にはお月様。周作さんもお月様のようです。過去の周作さんとリンさんの関係も、竹を切りながら気がつきます。すずはかぐや姫なのです。

竹取とすずの対応表です。

竹取表

竹取で袖にされた求婚者たちの行動を、すずはすべて実行し、同じ結果を招来します。

石作皇子は偽物の鉢を捨てます。すずは納屋で見つけた茶碗(本来周作がリンにあげようとしていたもの)を処分します。

車持は玉の枝を偽造しますが、ばれて恥ずかしく行方をくらまします。すずはユーカリの葉を摘んできますが、家族は行方不明になっています。

阿部御主人は火ねずみの皮衣を入手したつもりでしたが、燃えてしまって恥をかきます。すずは焼夷弾に布団をかぶせますが、火を止めれず水をかけて処理します。

大伴御行は龍の首の玉を取るために外洋に船出しますが、嵐に遭遇して体調をくずし、目が腫れます。すずは木炭のかわりにたどんを自作して、不完全燃焼で煙が出て、目を腫らします。

石上麻呂はツバメの持っている子安貝を得ようと、軒先を探りますが落下。つかんでいたのはツバメの糞でした。すずは小松菜の種を軒先に設置します。描写されていませんが、収穫の見込みはゼロです。

かぐや姫兼求婚者5人、ひとり竹取物語です。自給自足生活です。

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すずは羽衣をまとい嫁に行きますが、「広島で生きていこう」と決意してから、その羽衣を売ります。自分は天に戻らないと決めたのです。

するとどうでしょうか、水鳥が、うさぎが、重巡青葉がかぐや姫のかわりに天に昇ってゆきます。よく考えられた作品です。もっともっと掘り下げられそうですね。
ほかにも因幡の白兎、桃太郎など入っている感じです。

クライマックス

原作のクライマックスは、映画版とちがって終戦の日,玉音放送の直後です。玉音放送を聴き、号泣するすずの頭を、天から手が優しく撫でます。

右手

右手ですからおそらく、彼女が失った右手です。同時にそれは、この戦争で払われた全ての努力、戦争で失われたもの全ての命の象徴でもあります。

右手は、失われてはいないのです。
現にその右手が縁になって、彼女は養子をもらうことが出来ました。右手が失われていないということは、全ての命は失われていない、ということです。それらは大きな生命そのものに戻ったというだけで、又必要あればいつでもこの地上に下りてきます。白木リンも、浦野家の人々もです。

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なんにも知らなかった

浦野すずさん、可愛いですけど、なんにも知りません。嫁に行ったのは昭和19年2月、もう戦局は悪化しています。でも義母さんのように敏感に感じることは出来ていません。義姉の径子のこれまでの経過や内面までこころが至りません。そんな危機感の薄さが結局晴美のわがままを許すことになり、晴美の命と、すず自身の右手を失うという結果になります。

この世界の片隅に

最終回の前の回、すずと周作は、最初に出会った広島の橋の上で話します。「わしはすずさんはいつでもすぐわかる。ここへほくろがあるけえすぐわかるで」すずは自分の黒子のある左ほほを触ります。

黒子

そして言います。
「周作さんありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれてありがとう周作さん」

最終回の直前で、ようやくタイトルの意味が明らかにされます。

私たち一人ひとりは、世界の全てではなく、世界の中心でもありません。
生命がこの世界のあちこちに遍在するものとしても、個人としての自分は、「この世界の切れつ端」つまり黒子にすぎません。

でも自分が「世界の片隅に」居ると考えるということは、世界全体が視野に入ることと同義です。冒頭で望遠鏡で世界を観察していたすずは、認識の旅を一段落終えたようです。すずは成長しました。小さな日常を扱う、大きな成長の物語でした。



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