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玄洋社の中村天風

玄洋社という右翼団体について「彼岸過迄」で少し触れました。

中心にいるのは頭山満と言いまして、暴力的で、命知らずで、かつ非常に知的で仁義も厚い。だから人望があった。こういうタイプはほぼ絶滅して今日ではイメージがわかない。ですのでここではよりわかりやすい、頭山の子分の中村天風取り上げてイメージ持っていただこうと思います。1876年生まれ。夏目漱石より9歳年下です。

中村天風は最終的には宗教者になりました。心身統一法をうたっています。今でも「天風会」は活動中です。大谷翔平が天風好きだと聞きましたが、詳しくは私も知りません。

中村は大陸で軍事探偵をした後、体調を壊して、色々治療方法を探して、最終的にはネパールで「ヨガ」を学んで回復したとの触れ込みです。その「ヨガ」の実体がよくわからない。本当はチベット仏教を学んだのだ、という説もあれば、実体はヒンズー教だという説もある。なにしろ現地ではこってりと習合しているので、今となっては実体解明は不可能です。広い意味でのインド教を習得して日本に伝えた、と考えればだいたい間違いではないと思われます。もっとも、全部ウソで本当はインドで修行はしていないという可能性も、完全には捨てきれないのですが。

それで、宗教者としての中村天風の魅力は、「言ってはいけないことをポロっと言ってしまうこと」です。人としての正しい道を説きながら、時々無駄に自慢してしまうのです。危険な魅力というやつです。
「私は加藤清正よりは、人間殺しているよ」
いくら元軍事探偵とはいえ、そんなことを宗教家が言って問題にならなかったのですから、今とは時代が違いますね。

軍事探偵というのは要は暗殺屋です。日本が大陸で勢力を拡張したい。しかし当時の満蒙は、ロシア、中国軍閥、下手するとイギリス、アメリカの諜報部員が跳梁跋扈する環境でして、そいつらをコツコツ潰してゆく人材が必要だった。
中村は武士の家系で、子供の頃から独特の剣術を仕込まれていました。本人の説明も面白い。最初は数年間足さばきのみ。ステップを完璧にマスターするまでは竹刀も握らせてもらえないそうです。私は剣道もなにもできませんが、雰囲気的に本物っぽいですね。
その剣の技術を生かして、大陸で人間殺しまくったようです。同僚はほとんど死にましたが、天風は生き残った。今となっては失われた価値観ですが、そういうのをよしとした時代もあったのです。「草枕」の那美さんの元亭主のご同類です。実際那美さんのモデルの前田卓は日本で辛亥革命の手伝いしていますが、中村天風もインドの後中国に渡って孫文の手伝いしています。

今、youtubeで中村泰三郎というひとの据物斬りを見れます。ご覧いただければ男性ですと直感的に、「ああこの人、過去に相当人間斬ってきたな」と感じるでしょう。普通の居合の名人とは、雰囲気まったく違います。剣を振るたびに周りに血潮が見える気がする。特有の強さと、特有の暗さがあります。

この中村泰三郎も大陸で活動していたようで、中村天風の後輩みたいなものですね。
そもそもなぜ天風が軍事探偵の道に入ったか。学生時代に事件おこしてしまったのです。ケンカをしていたら、相手が包丁持ち出してきた。奪おうとしてもみ合いになって、気がつくと包丁は相手の腹に刺さり血を流していた。不運な事故と言うべきですが、ここでも事情を中村天風は弟子に説明しながら、ポロっと余分な一言を加えてしまいます。
「まあ、そう言わないと警察は許してくれないからね」

とにかく相手が死んだので、当然学校は退学です。当時はそんな人間をスカウトする人が居たようで、それが玄洋社なのですが、スカウトの殺し文句は「おい、いくら人間殺しても大丈夫な仕事があるぞ」だったそうです。いや、時代が違いますね、。それで大陸に渡って、熱心に活動して、運良く生き残ったのですが、日本に帰ってきて急激な肺結核になります。日本では治療できないから、治療法を求めて海外旅行中にチベット仏教の尊師に出会った、とされています。

ここで冷静になって考えましょう。天風が当時死病である結核になったのは、どう考えても天罰です。彼が殺した人の中には無辜の第三者も大量に居たはずで、その人達への罪が降り重なって回復不能の病気になった。正しく因果応報です。つまり天風は死んでもらわにゃ困るのです。しかしヨガの修行で生き残ってしまった。はたして心身統一はよいものなのか。なにしろ生死のことですから私には判断不能ですが。

ネパールである日、中村天風は師匠から質問されます。書き写すの面倒ですので、こちらどうぞ。

「上に大きな蛇、下に虎」の部分です。私の読んだ本では、中村の答えは「仕方がないので落ちるまで周りの風景を楽しみます」でした。確かに立派です。良い考え方です。人の一生は所詮は落下までの短い時間です。永続すると勘違いしているだけです。だからこそ刹那を最大限に充実させなきゃいけないとする考え方です。

人間、にとどまらず万物は過去の因縁にとらわれている状態ですが、インド思想は刹那を充実させることによって過去の因縁から解脱できるとします。そして人斬り天風は過去の血みどろの因縁から解脱してしまった。良いのか悪いのか。90過ぎまで長生きして、死後解剖してみたら壮大なオチが判明しました。肺結核は治っていなかったのです。病気は数十年間元気(?)に活動を続けていましたが、心身統一で中村も元気に活動つづけていたようです。

ここでなんだ何も解決していないじゃないか、と思うのは現代人の考え方で、天風も、漱石もそれこそ解決だと考えるのです。この刹那主義が本来の日本の姿で、その意味では天風も漱石も同じ思考方法です。

作品で見るならば、「草枕」の那美および元亭主、「門」の坂井弟と安井、「彼岸過迄」の森本と田川、みな中村天風の同族です。漱石は彼らを細かくは描写しません。そもそもそんなに詳しくは連中を知らない。帝大卒業、イギリス留学組とは階級は違いすぎます。でも今日の我々と違って、漱石および当時の読者にとっては、天風たちはそれなりにリアルな存在だった。だから作品に登場しますし、重要な役割になります。

彼らは当時のインテリにとって敵そのものです。嫌いで嫌いでしょうがない。山嵐を見る赤シャツです。ということはつまり、漱石は(山嵐が嫌いではないですから)実は連中を嫌いではなかったのです。でも漱石崇拝者たちはインテリですから、連中が大嫌いだった。それで漱石読解の中で彼らの存在は抹殺されています。無視されているのです。


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