見出し画像

「三四郎」あらすじ解説【夏目漱石】8・作品批判と作家批判

前回はこちら。

「「三四郎」の世界」

千種キムラ・スティーブンの「「三四郎」の世界」という著作があります。名著です。

近代日本文学の読み解きとしては最高レベルに位置します。極めて詳細に検討しています。結論は私と違うのですが、最大限の敬意をここに表します。

千種は、「三四郎は強烈な勘違い人間である、列車女は誘っているわけではなく、美禰子は三四郎に惚れたことはなかった」論を展開します。説得力があります。確かに三四郎は自分勝手に物事を考えます。しかし田舎の地主なんぞ実はそんなものです。竹中平蔵とか上野千鶴子とかが話題になっていますが、あれは奇特なキャラではなく、昔の田舎の小金持ちは皆あんな感じなのです。最近は希少品種になりましたから、珍しくて若い人が驚いているだけで、元来が全員身勝手なガリガリ亡者さんです。他人のことはいっさい感知しません。そんでもってなぜか自分を完全な正義の味方と定義づけます。
三四郎も同じです。他人にあまり興味がありません。そのことで美禰子にイヤミ言われます。生命力はあります。欲望は強いです。一本調子で切り込んできます。だから都会人は処置にこまる。そして本人にそのことの自覚は一切ありません。

では三四郎は列車女に誘われていないのか。誘われています。美禰子は惚れていないのか。最悪野々宮の代わり、くらいには考えていました。もしも三四郎を自分の支配下におけるならば、ですが。
ではその漱石の描写は的確か。さのみ的確ではありません。あまりにも三四郎に都合よく物語が進行します。

漱石は統合失調症なのです。

「夏目漱石 - 日本の小説家である。精神科医の呉秀三博士に妄想性痴呆(妄想型統合失調症)と診断された[154]。エピソードとして「恋愛妄想」があり、病院で出会った女性が自分との結婚を熱望しているという妄想だが、実際にそうした事実はなかった[155]。」

より。

この漱石の妄想が具現化したのが三四郎です。女はみんな自分に惚れています。となると千種の判断は、作品の内容の判断ではなく、漱石の持つ「常識」への批判になります。作品批判ではなく、作家批判です。その批判はそれなりに正しいです。実際漱石は統合失調症なのですから。自分の一部を反映させた三四郎を登場させると、不自然なモテモテ青年が出現します。ではすべて三四郎の勘違いとするのが作品解釈として正しいか。正しくありません。
一般人からみて「そんなので惚れたと判断されては女は困る」という言動でも、漱石の基準では「惚れたという十分な女からのサイン」なのです。そういう人が小説世界を組み立てています。その場合、判断基準を漱石のそれに合わせるしかありません。では漱石の判断基準が明快にあるのか。ありません。作品全体の構成から判断するよりほかありません。

作家も読者も、100人いれば100様の言語体系を持っています。言語には多義性があるからです。多義性の分布はそれぞれの人がそれぞれの頭の中で構築したもので、その人唯一のものです。よって言語を使って他人同士が完全に理解しあうのは不可能です。数字ならば一義ですので話は別ですが。それでも、文学作品読解の際「色々な読み方が可能だね」以上の会話をなんとか成立させたい。だから私は「構成読み解き」をやっています。理解とはついに、パラレルワールドならぬパラレル作品を自分用に作成する作業です。気合さえ充実すればどんな読み解きだって可能です。だから細部読み解き一本では延々と水掛け論が続きます。千種説も構成から見ない限り、否定するのは難しい。しかし構成から考えればかなり高い確率で読み違えしている、と言えます。
もっとも構成読みをしても100%の確定は無理です。それでも意味の範囲を有意に狭められる。

美禰子の立場

三四郎の美禰子に惚れられているという自覚が、「完全な勘違い」ではなかった証拠になるのは、前述した菊人形と原口アトリエの対です。

画像1

第五章の前者では野々宮がチヤホヤしてくれないから、美禰子は脱力します。第十章の後者では、三四郎が返金しようとするから美禰子は脱力します。美禰子は結婚したいのです。この二つが対になっているということは、(野々宮が最有力候補であるのは確かですが)、三四郎も金さえ返さなければ十分候補だったのです。そうでなければ対になる場所に似たような事件を記載しない。地元の新蔵がそうであるように、毎年20円美禰子が三四郎に金を出すことによって、両者の関係は維持できます。恋人関係というより、美禰子上位の主従関係ですが。でも三四郎は30円全額返金しようとした。この時点で美禰子と三四郎の関係は事実上終わりました。教会での返金は最後のダメ押しにすぎません。

そして美禰子の最終的な結婚相手は、最初野々宮よし子に結婚申し込み、よし子に断られた人物です。三四郎がそうであったごとく、美禰子もしょせんは二番手だったのです。もっともその旦那は美禰子を絵に書いてもらい、描いた画家の原口に非常に丁寧に感謝します。つまり(野々宮よし子にたいする程ではないにせよ)旦那は十分美禰子に惚れています。だったらば、美禰子も十分三四郎に惚れていた、と判断するより他ありません。三四郎としては自分が最有力と思っていました。それは勘違いですね。なぜって、美禰子も二番手だからです。

オルノーコ

作中「オルノーコ」という昔の小説の話題がでます。イギリスの1688年の作品です。江戸時代初期です。

アフリカの王様の息子が騙されて奴隷として売り飛ばされて、最後は残虐な目にあうのですが、尊厳を保ったまま從容として死にゆく話です。植民地支配をしながら、支配者(西洋人)のほうがむしろ人間性が劣るということを告発した本です。
千種の解説では「三四郎」ではオルノーコを戯画化することによって、(明治日本のオルノーコである)三四郎の、夜郎自大な滑稽さを表現している、となります。しかし本稿の読者様にはおわかりのように、「オルノーコ」は内容的に、「プレ・闇の奥」というべき作品です。

漱石はおそらく、コンラッドの「闇の奥」を暗示するために本作に「オルノーコ」を登場させています。「虞美人草」の赤い宝石も「闇の奥」を連想できますし、漱石は元来コンラッドが好きです。したがって、表現にふざけた部分はあっても、戯画化は考えられません。表現の拡大解釈に過ぎます。
解釈が不適切だという証拠に、千種は、三四郎の母からの手紙を「作者は田舎の粗雑さを表現するために新蔵や平太郎を描かせている」と位置づけます。間違っています。その読み方では、新蔵がなぜミツバチを増加させているか、平太郎がなぜみかげ石の石塔を建立したのか、全く説明がつきません。

画像2

新蔵のミツバチは美禰子の銀行口座とパラレルですし、平太郎のみかげ石は野々宮の雲母、水晶とパラレルです。千種はここが読めていません。そして新蔵=美禰子である以上、美禰子は怒って薪を振り回せる人間です。凶暴性を秘めています。粗雑なのはオルノーコ=三四郎ではなく、新蔵=美禰子なのです。そのことは「オルノーコ」内で、西洋人こそ残虐という告発がされていることと完全に一致します。

読み解きは「本文中のできるだけ多くの情報を、偶然ではなく必然と説明できる」ことを目指すべきです。わかりやすい伏線の意味を、わざわざ説明不能にしてはいけません。つまり、三四郎はそこまで粗雑と表現されておらず、オルノーコはさほど戯画化されていません。三四郎はオルノーコほどは立派ではないかもしれませんが、オルノーコのように尊厳を保持します。現に金をもらったまま奴隷化する道を選ばず、美禰子を疲弊させてでも返金しました。ホムンクルス美禰子の向こう側には、西洋キリスト教社会があります。残虐な帝国主義があります。オルノーコも三四郎も、きちんと反抗します。漱石は洋行しましたが、多くの出羽守と違って精神は奴隷化していません。日本の現状に絶望しながらも、独立自尊の道を必死になって模索しています。模索している作者の分身が三四郎です。確かに勘違いです。夜郎自大です。それでも安全な被支配者よりも、こっけいな自由人の道を漱石は選びました。尊い選択だと思います。

批判しましたが千種の著作は、文学読解の規範ともいうべき綿密さを持ちます。結論はどうであれ、「本文をじっくり理解しなければならない」と考えている時点で、この業界では超一流と言えます。一読をおすすめします。章立て表や人物表作成してもらえればさらに素晴らしいのですが。

闇の奥

少し別の話題です。先程「闇の奥」を意識していると書きました。「オルノーコ」を登場させるとは、そういう意味です。西洋人支配の非道さの告発です。しかしより直接的に「闇の奥」を表現している箇所があります。広田師弟がらみの場所です。
与次郎は広田先生を「偉大なる暗闇」と呼びます。そして広田先生は与次郎を「丸行燈」と呼びます。丸行燈はたいした光量ではありませんが、暗闇に置けばかなり目立ちます。いかにももって「闇の奥」です。

三四郎は与次郎に言われて広田先生の引っ越しの手伝いに来ます。なぜか美禰子も来ます。与次郎はわざと遅れて来ます。つまり二人きりの時間をセッティングしたのは与次郎です。与次郎が遅れている時、三四郎と美禰子は二階に上ります。真っ暗です。真っ暗の時間を若い二人で過ごします。まさに広田は「偉大なる暗闇」ですね。妄想と欲望が掻き立てられます。「闇の奥」での迷子の羊です。そして窓を開けて光を入れ、二人は同じ空を見ます。「かつて美禰子といっしょに秋の空をみたこともあった。所は広田先生の二階であった。」

画像3

広田と与次郎、すなわちメフィストフェレスとファウストの目的は、三四郎を自分たちの悪の道に引き入れることです。大きく言えば応援団を増やすため、具体的には活動資金の一部を調達するためです。悪いです。でも健闘虚しく広田と与次郎は敗れました。三四郎から調達した20円で競馬に勝っていれば、百円以上の軍資金が出来たでしょうから、勝負はわからなかったでしょう。三四郎も敗れましたが、それなりの思い出は作れました。なにもしなかったよりはマシなのかもしれません。まさに第一章で読んでいるフランシス・ベーコン流の帰納法の青春でした。
おわかりのようにここで作者漱石は、ゲーテの「ファウスト」とコンラッド「闇の奥」をつなぐ道筋を発見しかかっています。次回作「それから」では、ワルキューレが出てきます。ひょっとして「ニーベルングの指環作品群」に気づいたのかも知れません。

鋭意調査中ですのでしばらくお待ちください。(「三四郎」あらすじ解説・終わり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?