【ネタバレ有】映画『竜とそばかすの姫』評

1. はじめに


「いちばんいけないのは、お腹がすいていることと、独りでいること」。

 この言葉は、2009年に公開された映画『サマーウォーズ』の作品全体を象徴するセリフである。当作は近未来的な仮想空間上のプラットフォーム「OZ(オズ)」を主たる舞台とした一家族の物語なのであるが、今にして思えば、「OZ」というインターネット空間に寄せた我々の反応は、ワクワクそのものであった。同年同時期に上映された長編アニメーション映画『新劇場版 ヱヴァンゲリヲン破』の終末感溢れるラストシーンと非常に対比的に感じられたのは、いい思い出である。本当に個人的な話だが、これらを同日に続けて観たせいで当時はいろいろと考えさせられたのだ。

 さて、『サマーウォーズ』公開から10年以上が経過し、先ほど例に挙げた『エヴァ』ですら半年近く前に完結を見た訳であるが、今作の舞台となる仮想空間「U」に、かつての「OZ」に抱いたようなワクワクがあっただろうか。恐らくだが、今作にそんなものを感じた人はほとんどいなかったのではないだろうか。私の素直な感想は、「50億人超もの人間の我欲、その坩堝ほど恐ろしいエンスージアズムはない」。『サマーウォーズ』がエンターテイメントとして成立しているのは、「人間対マシン」という、『ターミネーター』や『マトリックス』など過去にやり尽くされた文明批判的な側面を持つ設計図を下地にしているからであって、そこに於いては一個人の欲望や願望などが取り沙汰されることなど前提からしてあり得ない。この手のジャンルのストーリーは、その名目上必然的に「世界が〜」とか「人類が〜」といった文法に則るからである。しかしながら、今作はそれらとはまるで異なる。「U」は「OZ」の更に先の世界観であるはずなのに、どこか現代社会のそれと限りなく近しい構造をもって我々のもとに届けられた。じっさい『竜とそばかすの姫』は、誤解を恐れずに言うなら、『サマーウォーズ』を否定する形で幕を開けるのだ。電脳空間は全人類にとって飽くなき自己顕示欲と乾くばかりの正義感を発散させるだけの場所と成り果てたし、主人公のすずは「家族とご飯を食べたがらない子ども」であるし、「竜」は「孤独そのもの」である。この惨状、栄おばあちゃんが見たら驚嘆するであろう事は想像に難くない。

 今回は、「OZ」の実態を見つめ直し、再構築された「U」を舞台としながらも敢えて「個」のストーリーに終始した『竜とそばかすの姫』、そのレビューである。

2. 『竜とそばかすの姫』は「ポリコレ」なのか


 長編アニメーション映画として、上映当時かなりセンセーショナルであった新海誠監督作品をヒントに考えてみよう。『君の名は。』も『天気の子』も、あくまで根幹は「男の子が女の子に会いに行く」話である。「ボーイミーツガール」とはまさにこの事であって、要は王道も王道の展開、こと日本のアニメーション作品に於いては欠かせない定型と言える。しかし今作はその真逆であり、「女の子が男の子に会いに行く」話なのだ。主人公の女性が活躍するアニメーション映画としては、『この世界の片隅に…』はそれ抜きには語れない程の傑作であるし、数年前に前後編二部作で公開された『はいからさんが通る』も記憶に新しい。近年のテレビアニメーション作品で言えば、原作が『LaLa』にて連載中の『赤髪の白雪姫』などもその系譜であろうか(余談だが、『はいからさん』も『赤髪』も主演が早見沙織なので彼女のファンは必見である)。尤も、これらの作品はいずれも少女漫画原作であるからして、「芯のつよい女性主人公」というキャラクター像は当ジャンルに於いてはそう珍しい訳でもないのであるが(ただし『片隅に…』を少女漫画とみなす事に関しては意見が分かれるであろう)。要は、べつに矢印が女の子から男の子に向いていても物語は成り立つし、今やありふれているのだ。

 さて、この様に近年ではある種ひとつのトレンドとも言える女性主人公アニメであるが、じっさいのところ『竜とそばかすの姫』はいわゆる「ポリコレ」を全面に出した映画なのだろうか。考察にあたり、まずは本作のモチーフとなった『美女と野獣』を手がかりにして考えてみたい。

2-1. 『美女と野獣』の新しい形


 『竜とそばかすの姫』は、『美女と野獣(原題:Beauty and the Beast)』をベースにしている、というよりかは最早『美女と野獣』そのものと言っても過言ではないとすら思える。序盤から今作のストーリーを整理してみよう。

・とある田舎に暮らす高校生すずは、「U」の超人気歌姫「ベル」である

・「ベル」のライブに割って入った「竜」の棲み処は、誰一人として行き方を知らない「城」である

・「城」に自生する「薔薇」と「ベル」の歌がキーとなって、「竜」は「ベル」に心を開いていく

・「U」世界のはみ出し者である「竜」は指名手配となり、“WHO IS THE BEAST?”との手配書が出回る

・自警集団「ジャスティス」によって「竜」の「城」が暴かれ、彼らの奇襲によって「城」は全焼する

 上記の通り、すずのアカウント名が「ベル」である点、「竜」の隠れ家が西洋風の「城」である点、「赤薔薇」が鍵となる点、「竜」の英訳が"Dragon”ではなく“THE BEAST”である点、社会正義によって城が攻め込まれる点など、非常に『美女と野獣』を意識した作りとなっている事は間違いない。ここで重要になってくるのは、「細田守氏が『美女と野獣』の物語にいったい何を+αしたのか」である。これに関しては、下記の点が挙げられよう。

・「薔薇」は赤と黒の2色存在する

・故に「薔薇」は王子(ここでは「竜」)救済のリミットとしてではなく、「竜」と「ベル」それぞれの持つ愛の形を暗示するものとして機能している

・仮想空間上の2人の「赤と黒」の関係は、そのまま「太陽と月(朝と夜)」の対比に読み換えが可能である

・「呪い」から解放される(=克服する)のは「竜」ではなく「ベル」である

・奇跡は起きない(=存在しない)

 正直なところ、「ベル」と「竜」に関しては込められたメッセージが多すぎるため、一つずつフォーカスして紐解いていかねばなるまい。まず、作中の「赤と黒の薔薇」であるが、ディズニー映画『美女と野獣』においては、「赤薔薇」は「ヒロインから野獣(王子)への真実の愛を見定める」装置としての意味合いがあった。つまりは、「大人の男女の愛」を量るのである。本作でもこれまた『美女と野獣』を模した舞踏のシーンがあるのだが、「ベル」の胸元に「赤薔薇」が付されるのは勿論として、同時にタキシードに身を包んだ「竜」の胸元にも「黒薔薇」が取り付けられる。本作に於いては、両者が最後の最後まで恋愛関係には発展していかない点も考慮すると、これら「2色の薔薇」はそれぞれの内に抱える「愛」のメタファーと捉える方が自然であろう。「赤薔薇」の花言葉は「愛情」、「情熱」、「美貌」などであって、いずれも「U」での「ベル」の姿のときにはありありと発揮されていると言える。特に「美貌」に関しては、ルカちゃんへのコンプレックスの表れである点がなんとも皮肉である。一方「黒薔薇」の花言葉は、「愛」や「永遠」の他に「恨み・憎しみ」といったネガティブな感情を含んでいる。これは終盤詳らかになる「竜」のリアルでの家庭環境を考えれば至極当然であろう。

 続けて、「太陽と月」の対比について見てみよう。「ベル」という「U」に於ける唯一無二のバーチャルディーバを見れば、誰しもが現実世界におけるVTuberを想起するであろうし、彼女の公演はホロライブの映像化ないしは可視化である。相棒(尚且つ参謀)役である同級生のヒロちゃんが「ベル」の収益について言及している事からも、ニューノーマル時代の非接触・非対面推奨環境が追い風となって隆盛を極めた現代のアイドル像をモチーフにしているのは疑いようもない。さて、そんな仮想空間を照らす「太陽」の様な存在とは裏腹に、ソーシャルジャスティスウォーリアー(Social Justice Warrior; SJW)からの熾烈な攻撃を一身に受け続ける「竜」は、「ベル」と対極に位置付けられる「月」である。この関係は、冒頭にて「ベル」がクジラに乗って歌う"U"の歌詞に見て取れる。以下、歌詞を引用する。

ララライ ララライ
誰も知らない名も無い今を駆けてゆくの
あの三日月へ手を伸ばして

ララライ ララライ
君を知りたい声に成らない臆病な朝を
例え何度迎えようとも

臍の緒がパチンと切られたその瞬間
世界と逸れてしまったみたいだ

眼に写る景色が悲しく笑うなら
恐れず瞼を閉じて御覧

さあ!皆さんこちらへどうぞ鼓動の鳴る方へ
さあ!踵を打ち鳴らせどうぞ心の踊る方へ
さあ!蜃気楼に飛び乗ってさかしまな世界乗り熟して

ララライ ララライ
止まない愛を知りたいと願う御呪い
時を超えて朝から夜まで

ララライ ララライ
君を知りたい何一つ見逃さぬように
時は誰も待ってくれないの

残酷な運命が抗えぬ宿命が
考える間もなく押し寄せ砂嵐で
前が見えなくたって君を信じてみたいの
恐れずに一歩踏み出したら

さあ!皆さんこちらへどうぞ鼓動の鳴る方へ
さあ!踵を打ち鳴らせどうぞ心の踊る方へ
さあ!皆さんこちらへどうぞ鼓動の鳴る方へ
さあ!踵を打ち鳴らせどうぞ心の踊る方へ
さあ!空飛ぶ鯨に飛び乗ってさかしまな世界踊り尽くせ

ララライ ララライ
誰も知らない名も無い今を駆けてゆくの
あの三日月へ手を伸ばして

ララライ ララライ
君を知りたい声にならない臆病な朝を
例え何度迎えようとも

夢ならば醒めないで
現実なんてさ身も蓋もないから
時は誰も待ってくれないの

 この様に文に起こせば明白なのであるが、これは「さかしまな世界」すなわち「U」という虚構世界に於いて「太陽」として朝を迎える「ベル」が、誰も知らない夜の「城」に独り籠る「三日月」に手を差し伸べようとする歌である。じっさい、終盤「ベル」が自らの正体を明かし、すずとして“はなればなれの君へ”を歌う際も、彼女の手の先は三日月に向かっていた。さらに、歌詞中の「呪い(まじない)」はさながら魔女にかけられた「呪い(のろい)」である。彼女にとって愛が「呪い」なのは、幼少の頃自分を残して他人の子どもを助けに行って命を落とした母親の行動が理解できず、愛を知りたいという願いはあるがしかしそれは同時に自身の傷を抉るに等しい行為であって、結果として歪な形でトラウマとなっているからに他ならない。現実はことほど身も蓋もないのだ。

 さて、主人公の抱える心の傷について触れたところで、ようやく細田守版『美女と野獣』に於ける新解釈を見ることができる。すなわち、「呪い」を受けているのは王子に配置された「竜」ではなく、姫側の「ベル」なのである。もちろん「竜」の私生活もなかなかに壮絶であるから、見る人によってはそれもまた「呪い」に映るであろうが、本作においてそれは「すずが自らの『呪い』から脱却していく過程で彼らを助けに行く動機となる」に留められている。細田守氏がメガホンを取った過去作にも、「『呪い』を持った子ども」は多数登場する。『バケモノの子』の主人公・九太などはその典型であろう。だが、彼の心の隙間に宿ったのは彼自身の黄金の精神ではない。つまるところ、どこか他力本願であった。この点が今作は圧倒的に異なると思われる。「ベル」というもう一人の自分は「U」の生体情報スキャンによって読み取られた彼女の内なる「呪い」の表出であった訳だが、億単位の人間の前でリアルを晒す(=「アンベイル」する)などというおよそリアルでは考えられない決断によってそれは消え去り、他の誰でもない「内藤鈴」として初めて誰かのために行動する事で、あの日の母親の真意を理解するのである。故に、最後のライブシーンはアニメの女の子らしくかわいく描かれてはいない。そう、まるでかわいくない。代わりにそこにあったのは、自身の心の傷と向き合って誰かを助けようとする一人の人間のこの上なく誠実な姿である。周りのあたたかい大人や同級生らの支えこそあれ、これこそが精神的自立であり、成長である。そこに奇跡はない。すずの歌に幾億人ものアカウントが涙したのは、『サマーウォーズ』のラストシーンの様な幻想的献身によるものではない。畢竟、「竜」は「野獣(王子)」の様に死ぬ事はないし真実の愛による奇跡の復活もしない。黄金の精神は、現実という名の荊道を血塗れになってでも進み続けた者だけが辿り着く事のできる境地である。だからこそ「ベル」を脱ぎ捨てたすずの歌は尊いのだ。ちなみに、いきなり最後になって歌えたと思われる方もいるかもしれない。しかしよくよく本編を観ると、「城」での舞踏の前、歌唱隊の大人たちに「歌を届ける」事を提案されたすずは帰り道で新曲を自然に口ずさんでいる。じつは、彼女のトラウマはこの時点で既に快方へと向かいつつあると推察できる。橋の上で吐いてしまったり、声がかすれてうまく歌えなかった序盤と比べればそれは明らかである。

2-2. 映画に見る「ポリコレ」


 前節にて、今作を細田監督による『美女と野獣』の新たな解釈であると位置付けた訳であるが、着想の元がディズニーである事に加えて、キャラクター原案に『塔の上のラプンツェル』や『アナと雪の女王』のジン・キム氏を起用している点を考えると、「ポリコレ」についての言及は不可避であると思われる。

 そもそも「ポリコレ」とは、「ポリティカルコレクトネス(Poritical Correctness)」の略であり、「様々な局面に於いて、人種、民族、宗教、性別など人を人たらしめる様々なファクターに関して、その多様性を認め合うべきである」との信念に基づき、それを何らかの形で実践する事である。この様な「配慮」は、例えば「企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility; CSR)」の様な概念にしてもそうなのであるが、はじめは「『SDGsのゴールであるサステナブルな社会の実現』を考慮した場合、排気ガスは我々の社会にとって非常によろしくないので、もちろん排出量を抑える努力は惜しまないし、クリーンな代替エネルギーを動力源とする自動車の開発にも注力します」という単なる態度であったはずが、「(他社と比べて)これだけ有害な物質の排出量削減に成功しているのは、我々がより企業努力をした結果であるから、より優れたCSRを実践している自社の自動車を買ってください」といった形で、いつからか企業競争力を決定づけるほどの指標となった。つまり、現代社会にあっては、「配慮」は最早「義務」なのである。映像作品は尚の事そうだ。「この映画なんの配慮もしてないんですか?」と言わんばかりに、やらなければ後ろ指を刺されて潰されるのである。その光景たるやまるで中世ヨーロッパの魔女狩りである。この様に、いかなる立場にあろうとも、あらゆる言動について、事実上の“You must do it.”である“You should do it.“が全方位に対して要求される相互承認型超監視社会、「ポリコレ」はその様な社会を象徴する物差しである。なんとも息が詰まるのは、マスクの所為だけではない。

 さて、それでは「ポリコレ」は映像作品においてどの様に実践されるか。私見だが、「ポリコレ」とは、有り体に言ってしまえば「らしさを排していく事」である。例えば性別という文脈では、それは「ジェンダーレス(genderless)」と呼ばれる。なるほどたしかに「個性の等価値化」という目標そのものは素晴らしい。だがその見せ方は非常に困難を極める。今作の「U」内のキャラクターデザインからどうしても連想するであろう『アナと雪の女王』を例にとろう。今さらネタバレもあるまい。

 主人公の「雪の女王」ことエルサは文字の通り一国の女王であるが、最終的に結婚をしない。つまりこの映画シリーズに於いて「女性は(政略的な意味での)道具ではない」事が強く押し出されており、妹のアナもまた平民の商人スヴェンと恋仲になっている事からして、身分格差への批判も多分に含まれている事が窺える。さらにエルサに至っては、続編において王位すらも放棄、自らを縛り続けてきた忌むべき伝統や悪習とおさらばする事こそ女性の自由であり自立であると示した訳である。エモーショナルかつセンセーショナルな音楽の数々で覆いい隠されてはいるが、よくよく見ていけば、旧来の「女性らしさ」や「女王らしさ」を徹底的に排除して善しとするのが『アナ雪』の実態である。これはあくまでエルサ目線のみで考えれば幸福そのものである。自分のやりたいようにやって、そのいずれもが実現しているのだから、それは当たり前だ。だが、それは一面的なのである。例えば作中最も割りを食ったであろうハンス王子。彼は嫡子ではないので、世襲制の王家にあっては自分の領土は自身で開拓せねばならない。故にハンスからアナへの求婚は、個人の目線で見れば多少なりとも強引に映るのであるが、やっていること自体は社会的立場を考えれば少しも悪い事ではない。悪ではないにもかかわらず、姉妹を引き裂かんとする敵役のごとく配置されたのは不憫以外の何ものでもない。またエルサの王位放棄など由々しき大事態である。たしかに生まれついて課された王家としての役割などは、彼女自身が心から望んで選択したものではない。だが、少なくとも作中の領土内に住む市民らは善良そのものであって、女王に敵意を向ける者など誰一人として存在しない。そんな心優しき彼らへの政策は今後どうするのか。加えて、自身のわがままを通した結果王位を継承する妹はどうなるというのか。自分だけ氷馬に跨って声高らかに歌えればそれで良いのか。自由は自らに課せられた重石を他人に丸投げしてまで成されるべきものではない。それをさも自由意志に基づく決定であるかの様にすり替えるのは筋違いであろう。社会は、自分ひとりだけで生きているのではない。特に続編に関しては、「他者によって生かされている自分」という視点が欠如してしまっていると言わざるを得ない。

 以上が、登場人物たちから「らしさ」を排除した結果生まれた問題である。思うに、時代性を考慮するならば、「ポリコレ」は必要である。そもそも「配慮」それ自体は悪い事ではないからだ。だが、「ポリコレ」が最優先に尊ばれて然るべきとの風潮は危険である。これもまた一つのスタンスであって、逆に言えば「らしさを含んだ映画」もまた立派な一つの作品であり何かしらの主張を伴って発表される。それもまた「多様性の内の一つ」として認められねばならない事を忘れてはならない。中立は美しく見えるが、中立であるが故に、何かを決める段階に際しては、些か以上に無力である場合が多いのである。

 ここで、『竜とそばかすの姫』を再度確認しよう。本作は、「らしさを含んだ映画」である。ここが巧みなのだが、「らしさを含みながらもらしくなり過ぎていない」のである。具体的に言うと、主人公を含めてヒロちゃんにもルカちゃんにも好きな「異性」が存在するが、少なくとも本編中では、主人公は幼なじみのイケメンとも「竜」の中身のイケメンとも恋愛関係にはならない。『竜とそばかすの姫』は、あくまで主人公の自立するまでの物語だからである。幼なじみに至っては、すずがトラウマを乗り越えるまでの間、死んでしまった彼女の「母親の代役」に徹するという信念すら、脚本上有効に機能していたと言える。そこに不自然な形で「ポリコレ」が差し挟まれることはない。つまり今作は、女の子は女の子であって、男の子もまた男の子である。女性主人公という体を取りつつも性の多様性の観点から「らしさ」を排さなかったのは、本作の評価すべきポイントであろう。ただしこれは私があくまで従来の「男らしさ・女らしさ」の対比構造にそもそも抵抗がないやや保守的な価値観が前提の評価となる為、この意見もまたワンオブゼムである事をことわっておきたい。だが、『アナ雪』の様な「らしさ」のジレンマに陥ったり、実写版『美女と野獣』の様にディズニー映画史上初となるゲイのキャラクターを登場させて物議を醸したりするくらいならば、不要とすら思える程の過剰な「正しさ」にこそ「配慮」が必要であると私は考えて止まない。

 さて、この「正しさ(Correctness)」という言葉もまた、現代社会を生きる我々には欠かせない視座である。細田監督は自らを「インターネットを肯定的に描いてきた人間」であると規定しているが、作中の「竜」への社会的制裁を見るに「ネットのややネガティブな側面への眼差し」が見て取れる。この点について、次章で詳しく見ていきたい。

3. 或る物語の領域内に於ける「正しさ」


 『竜とそばかすの姫』を鑑賞した人々には、今回登場した「U」がどの様に映っただろうか。冒頭でも触れたが、少なくとも私は、まったワクワクしなかった。心の踊る描写など何ひとつとして無かった。それもそのはず、キングカズマの様なヒーローなどこの世には存在しないからである。「竜」が「クリオネ」にとってのヒーロー足り得るのは、家庭的な事情とそこでの兄弟愛という特殊な背景による。しかして「U」にはヒーローもいなければ、前章にて見た通り奇跡も起こらない。作中に於ける「もうひとつの現実」とは喩えではなく、我々の暮らす現実世界への呼びかけであるとすら感じられる。では、なぜ今作は「反『サマーウォーズ』」的な性格を帯びていたのだろうか。日本のアニメーションの範囲に絞って考えてみても、監督や脚本家が次作に於いて前作を否定的に捉えるのはよくある事である。幾原邦彦監督の最新作『さらざんまい』は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のストーリーをベースにした前作『輪るピングドラム』で魅せた自己犠牲の美しさを真っ向から否定する衝撃作である。また、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』に於いて幻想的なめんまの死と再生を描いた製作陣は、つづく『心が叫びたがってるんだ』では真逆の精神を提示した。『エヴァ』にしても、あれほどまで心穏やかに終幕を迎える事など、旧劇の頃には想像すら不可能であった事と思う。今作を含めて、これらの作品に共通しているのは、「他力本願な救いに寄り掛かるのは前時代的である」という価値観だ。神(乃至はそれに近しい絶対的な国家的枠組みや世界認識、コミュニティなど)は存在しない。だが、それは決してネガティブな意味ではなく、むしろ「他の誰でもない自己」を持った人間たちが当たり前に持って然るべきの「主体性」、及びその要請と言い換えられるだろう。ただしその自己は、大きな社会集団の中にある訳だから、そこに於いて「何をもって善しとするか」を常に考えていく必要がある。

 以上のトピックのうち、まず「U」とはそもそもどの様な空間として描写されているにかに関しては、『サマーウォーズ』を深く掘り下げていくよりも、その公開以降に登場した、仮想空間が舞台の作品と比較検討する事で見えてくるように思われる。そこで今回は、オタクの夢が詰まった『レディ・プレイヤー1』と、これもまたオタクの夢の具現化である『劇場版 ソード・アート・オンライン-オーディナル・スケール-』を取り上げてみたい。その上で、社会に於ける「正しさ」とは何かについて、「社会と正義」を主題とした思想を頼りに見ていこうと思う。

3-1. 「U」とは何なのか


 スティーヴン・スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』は、VRゴーグルを装着して楽しむ仮想空間「OASIS(オアシス)」を舞台とした作品である。フルダイブ型のバーチャルMMOという形態自体は『SAO』のそれに近しいのであるが、興味深いのはその世界観である。時は2045年、ヴァン・ヘイレンの“Jump”をバックに、オハイオ州はコロンバスのスラムめいた集合住宅に住む主人公ウェイドの語りで幕を開けるのだが、それを以下に引用しよう。

僕は2027年生まれ。
シロップ不足と電波不足の暴動の後、人々は問題解決を諦めるようになった。
(中略)
今現実は暗い。みんな逃げ場を求めてる。

 悲しいかな、この作品世界で生きる者たちの間には、現実は最早自分たちにはもうどうにもならないところまで来てしまったという諦念が共通してある。我々の生きる世界に置き換えて考えても、この諦めに対してどの程度反論できるかは正直なところ疑問である。つまり彼らにとって仮想空間へのダイブは現実からの逃避行であって、そこはまさしく人類最後の「オアシス」なのだ。凄惨たる現実を嘆いて逃避的にゲームに興じるなど、と思われるかもしれない。だが「ベル」の歌う“U”を思い出してほしい。「現実なんてさ身も蓋もないから」との歌詞は、現実に立ちはだかる問題と向き合う事への強い諦めの念を感じさせるに十分であるし、その憂いを紛らわすかの様に「さかしまな世界(を)踊り尽くせ」と歌い上げているのだ。疑うまでもなく、「U」の世界は『レディ・プレイヤー1』と同様の厭世的人生観を多分に含んでいる。さらに、「U」へのログイン時の口上も見てみよう。

「U」はもうひとつの現実
「As」はもうひとりのあなた
現実はやり直せない
でも「U」ならやり直せる
さあ、もうひとりのあなたを生きよう
さあ、新しい人生を始めよう
さあ、世界を変えよう

 「ようこそ、OZの世界へ」というナレーションが、最早遠い理想郷への輝かしい招待状の如く感じられる。なるほど現実に満足しているのなら、そもそも生をやり直そうなどとは思い至らないだろう。それは「ベル」が「U」内で初めて披露した曲“歌よ…”に於いてもよく表れている。

LA LA 歌よ導いて!
こんな小さなメロディが
貫いていく世界が見たいの

毎朝起きて 探してる
あなたのいない未来は
想像したくはない 嫌なの

でももういない 正解がわからない
私以外 うまくいっているみたい
それでも 明日はくるのでしょう…歌よ導いて!

嫌になる、みんな、幸せなの?
愛している人がいるの?
こうしてひとりでいると不安になる

歌よ導いて!
どんなことが 起きても良い!!

歌よ傍にいて
愛よ近づいて

 本予告にも使用されたこの曲であるが、主人公すずの行き場のないアンビバレントな感情がひしひしと伝わってくる。彼女の抱えるトラウマについては前章にて見た通りであるが、そのチグハグな心情は「U」というもう一つの世界に於いて「賞賛」を受ける形で開花し、皮肉にも仮想空間上の「太陽」になってしまった。したがって「U」に於けるもう一人の自分は逃避を志向する転生体であり、「世界を変えよう」との言も現実の世界へ向けて発せられたメッセージではない。それでは、50億もの人間がセカンドライフを謳歌する場として定義された「U」は、「OASIS」同様のフルダイブ空間かと言うと、作中のキャラクターたちの行動を見るにそうでもない。代わりに、「U」の世界に入る際に取り付けるイヤホンの様な手軽なデバイスから想起したのは、『オーディナル・スケール』に於いて登場した情報端末「オーグマー(Augma)」であった。

 ソニーから発売されている「PlayStationVR」は、じっさいに被った事自体はなくともその存在くらいはご存知の事と思う。流石に『SAO』の「ナーヴギア」ほどの性能ではないが、外見はそれを彷彿とさせるデザインのヘッドギアである。ここで言うVRとは、「バーチャルリアリティ(英:Virtual Reality)」の略称であり、「仮想現実」と訳される。対して、ゲームアプリ『ポケモンGO』の様に、まるで現実世界にポケモンが出現したかの様な感覚を楽しめる世界をARと言う。これは「オーグメンテッドリアリティ(英:Augmented Reality)」の略称であり、「拡張現実」と訳される。似通ったスペルから察せられる通り、「オーグマー」とは「拡張現実」を展開する装置である。なるほど「仮想現実」空間への人々の関心がやや下火となって、代わって熱中できる新たなエンターテイメント空間が求められているという設定は非常に興味深いものであった。

 さて、ここまで「仮想現実」と「拡張現実」について見てきた訳だが、面白い事に「U」はいずれにも該当しないように思われる。『オーディナル・スケール』に於いて主人公・桐ヶ谷和人(キリト)は「VRは仮想世界を現実化するものだが、ARは現実世界を仮想化するものだ」と指摘していたが、「U」の世界はどちらともとれない。より正確に言えば、「VRとAR双方の性質を良いとこどりしたかの様な空間」であって、好意的に見れば新しい試みであるが、その実非常に曖昧な存在である。ARやVRの他に、「ミックスドリアリティ」(英:Mixed Reality; MR、「複合現実」と訳される)といったものもあるが、これは現実空間に対応する3Dデータをスキャニングしてネットとリアルを重ねる手法を取るのだが、「U」の世界がその様なものであるどうかは映画を観ただけでは判然としない。アニメの演出的にはVR空間そのものなのであるが、キャラクターたちはべつにフルダイブしなくとも「U」をパソコンのモニター上に認識している。加えて、「視覚が制御下に入ります」とのナレーションが入る割には、デバイスを装着した状態にもかかわらず現実世界で走ったりしている。

 それでは、「U」とはどの様な空間なのか。以上の点を総合する事で浮かび上がるのは、「敢えて曖昧に設定されたリアリティ像」であると言えるだろう。すなわち「U」とは、漠然と提示される「現実からの逃避を可能にするもうひとつの世界」それ以上でも以下でもなく、耳に取り付けるデバイスもまた、キャラクターたちが「U」の世界に入った事を鑑賞者である我々の意識に呼びかける以上の役割を有していない。そこに於いて、アニメーションの一演出として「ベル」の歌や「竜」のバトルアクションはあるがしかし、彼らが彼らの脳内でそうしたいと念じたからそうなっている訳ではなく、かと言ってイヤホンによって現実を拡張している訳でもない。この点について、人によってはあまりに中途半端だと評価するかもしれないが、今作のストーリーの主目的を踏まえれば、「仮想世界の設定が『SAO』ほど重要なファクターではない」のだろう。加えて、ここがただただ凄まじいのであるが、多少の矛盾点など気にならなくなるほど、冒頭の演出が素晴らしいのである。長々と考察をしてきて言うのも本末転倒に聞こえようが、我々が「U」とは何かを細かく考える必要性は皆無であるとすら思える。上映開始からものの数分足らずで、我々は「U」の虜だからだ。今作はアニメーションなのであるから、物語の整合性以前に、「もうひとつの世界」をこれ以上ないくらいの圧倒的映像で見せつけるその引力をこそ賞賛すべきである。そこに言葉など不要である。

3-2. 「U」で描かれる「正しさ」


 「U」の世界観について確認したところで、今度はその内部に於いて描かれた社会正義の在り様について考えてみたい。今作に登場する「ジャスティス」は、その名の通り「公共の正義」を遂行する集団と銘打っている訳であるが、驚くべき事に自警団である。彼らはどこの国家にも属していない上に、また「U」の管理者らによって設けられたオフィシャルの治安維持組織でもない。「竜」を追い詰める「ジャスティス」幹部らの「As」は統一感のあるピッチリ白スーツで、戦隊モノのヒーローを彷彿とさせるし、その配下の者たちもまるで戦士隊である。ここで、「ベル」の姿が学友の容姿への嫉妬から生まれた事を思い出してほしい。「ジャスティス」らの姿もまた、「ヒーローになりたくても現実ではそうはなれなかった」劣等感の裏返しなのである。ここまで考察を進めていけばいくほど、SNS の発達した現代に於いて、インターネット上でじっさいに会った事もない他人を不用意に煽ったり誹謗中傷したりする者たちの精神の稚拙さや知性品性の無さが浮き彫りになってくるようで、「人の優しさや痛みついて学ぶ大切な機会から自ら距離を取って、簡単に偉くなれてしまうぬるま湯にばかり浸かってきたのだろう」と逆に憐憫すら覚えるのであるが、今作の「ジャスティス」に対して「正しさ」を今ひとつ感じられないのはどうしてだろうか。アメリカンコミック発の「アイアンマン」や「バットマン」に代表されるヒーローたちと、いったい何が異なるのか。それを決定的なものとしているのは、偏に「信念の根底にあるもの」であろう。

 アメリカの思想史を確認するにあたり、哲学者ジョン・ロールズは欠かす事のできない存在だ。彼の著書『正義論』並びに『政治的リベラリズム』は、主に政治哲学の分野において今でも議論されるが、「社会」と「正義」の接点、すなわち「公共の場での正しさの実現」という局面に於いて、『MARVEL』や『DC』などの作品群に登場するヒーローらの行動原理の基礎となっている概念であると言える。ロールズ的な「富の再分配」は、なにも金銭的な面ばかりではない。それはまさしく「ノブレス・オブリージュ(nobleaase oblige)」の理念を体現せんとする考え方であり、要は「持てる者は持たざる者へ、その財を還元しなければならない」のである。日本に於ける伝統的な正義観は、水戸黄門に代表される「勧善懲悪」だ。そこから導かれるであろう発想は、「悪(役)あってこその正しさ」である。海外の価値基準に照らして、「どうしてアンパンマンが日本の子供らにとってのヒーロー足り得るのか分からない」との疑問はこの様な価値観の差異に端を発する。「バットマン」はゴッサムシティに「ジョーカー」がいるから「バットマン」をやっているのではないし、「アイアンマン」もまた同様である。ブルース・ウェインにせよトニー・スタークにせよ、自らの肉体を酷使せずとも死ぬまで遊んで暮らせるほどの億万長者だが、彼らにとって「特定の敵を討ちとる事」は至上目的ではなく、あくまでそれは「社会的弱者への慈善的支援」という彼らにとっての「公的な正しさ」を実現するにあたっての一過程に過ぎない。

 さて、ロールズの唱えるところの「正義」とは上記の様な倫理観に基づくものであり、一般に「福祉国家的自由主義(英:Liberalism、リベラリズム)」に分類される考え方である。アメリカの政治哲学の学問領域に於いては、この主張を批判する形で、「自由至上主義(英:Libertarianism、リバタリアニズム)」や「共同体主義(英:Communitarianism、コミュニタリアニズム)」などが台頭した。『これからの正義の話をしよう』を著したマイケル・サンデル教授が教鞭をとる姿を追った「ハーバード白熱教室」という番組を見覚えのある方も多いのではなかろうか。これら諸思想についての詳細は本稿の主旨から遠ざかってしまう都合上割愛するが、いずれの立場にも共通しているのは、「国家の存在ありきで公正について語っている」点である。本来この様な事などは自明であるからして、共通項として引き合いに出すほどのものではないのだが、今作の自警集団「ジャスティス」の元になったであろう「SJW」に対して覚える違和感の正体を露わにするにはこの上なく有効であるように思われる。つまりネット社会に於ける「SJW」とは、多くの場合「正したい何か」が個々人の抱く一感情のレベルに由来するものであるにもかかわらず、「圧倒的なまでの数の力によってそれがさも総意であるかのように見えてしまいかねない」代物である。作中「竜」への制裁に異を唱える者は主人公らを除きほぼ存在しなかった訳だが、冷静に考えてこの偏りは異常である。神山健治監督の代表作『攻殻機動隊』シリーズに於いて、主人公・草薙素子の口から語られた「公安9課」の弱さとは、すなわち「暴走した市民の数そのもの」であった。ある個人が社会の和を乱した場合、それへの対処は比較的容易である。だが、それがウイルスの伝染の如く大多数を巻き込んだとなれば話は変わってくる。「社会のシステムが公正である事」は国家の維持発展の面から見て必要不可欠なステータスであるが、多数決制を政治的採択の根幹に据えているが故に「膨大な数の声」の前にはあまりにも脆い。とりわけ現行の法治主義(民主主義)の限界点とも言えるネットの世界に関しては、「SJW」の様な「増幅し続ける個」は「正しさ」を掲げるムーブメントとしてあまりにリスキーであり、すべてがとまでは言わずともそのほとんどが理念を何ら感じさせない「わがまま」に終始しがちであると言わざるを得ない。

 ここでひとつの疑問が湧いてくる。作中での行動を鑑みれば「SJW」以外の何ものでもない自警集団「ジャスティス」は、じっさい「いきすぎた正義」を体現する存在として描写されてはいるが、果たしてただの暴徒なのであろうか。と言うのも、「竜」が何をやってきたのか、作中詳しく語られないからである。「竜」が「U」でやった事と言えば「相手のデータが壊れるまで攻撃した」との情報くらいしか作中では明らかにされていないし、それが運営サイドにどの程度損害をもたらしているのかも「U」内の規約に反しているのかも判然としない。そもそもその様な規約すら碌に存在しない様である。だが、尊厳破壊兵器「アンベイル光線」を高々と掲げる「ジャスティス」のリーダー「ジャスティン」のバックには、無数の協賛企業が名を連ねているのも事実である。つまり「竜」にせよ「ジャスティン」(及び彼の率いる「ジャスティス」)にせよ、程度の差こそあれ、他者の尊厳や自由を一方的に奪っている存在であり、そこにネット空間内に於ける「正しさ」の限界がある。例えば、湊かなえ原作のミステリー映画『白ゆき姫殺人事件』では、SNSの実態が皮肉たっぷりに映し出されていたが、そこには「立場が変われば見え方は180°変わり得る」という気づきのメッセージがあった。今作は「ジャスティス」側のいきすぎた行動ばかりが目立つが、それを根拠に「竜」が可哀想だという考えばかりに傾くのも「正しさ」から遠ざかる行為ではないかと思えてならない。その為、今度は「正しさ」を訴える市民の運動に企業が与する事例を紹介しよう。

 近年のアメリカでは、“woke”という言葉が非常にホットなものとなっている。これは「目を覚ます」という意味の動詞“wake”から派生した語であり、「SJW」の間では「社会に対して覚醒した(woke)目でもって向き合い、行動せよ」という一種のスローガンである。「覚醒した社会正義」などと訳される事もあるが、例えばそれは女子サッカーワールドカップの様な大舞台に於いて、「業界内の男女の待遇差を撤廃し、また賃金・報酬についてもその格差を排していく事」を求める“Epual Pay”運動として実践された。この様な動きは、スローガンを取って“Woke Capitalism”と呼ばれる。そして、この運動の始まりから“woke”を牽引してきた企業がNIKEである。2016年、ナショナルフットボールリーグ(National Football League; NFL)の加盟チーム「サンフランシスコ・フィフティーナイナーズ(San Francisco 49ers)」でクォーターバックを務めていたコリン・キャパニック氏は、2014年に起きたファンガーソン事件などを皮切りに大きな社会問題と化していた「白人による黒人への暴力行為」に抗議する意図で、試合前の国歌斉唱に際して起立を拒否した事で話題となった。この事態が元で、キャパニック氏はその後アメリカのプロリーグでプレイする事ができなくなってしまったのだが、彼が発したメッセージを自社の掲げるスローガンと重ねる形で打ち出したのがNIKEだ。世界的に有名なNIKEのタグラインである“Just Do It.”、その生誕30周年を記念するCMに彼は起用された。CM中の“Believe in something, even if it means sacrificing everything”とのセリフは、彼の抗議内容を想起させるに十分である。このCMもまた大きな反響を呼んだのであるが、最終的には、昨年NFLサイドからの謝罪によって、キャパニック氏の「社会的正しさ」が認められるに至った。

 保守的な見方をすれば、彼の不起立は規範的態度とは言えない。故に、この事例をもって「SJW」の掲げる正義があらゆる局面に於いて認められるべきだとは思わない。しかし、形骸化してしまっている社会的枠組みや根深い差別問題などに対してNoと抗う「戦士」という側面を考えれば、決して無意味であるとも言い切れない。思うに、どの様な背景を持った問題であっても、そこに「理念」と「優しさ」が両立していなければ良い方向には進んでいかないのだろう。これらの欠けた運動は、とかく無秩序であり、ひどく暴力的になりがちである。その意味で『竜とそばかすの姫』は、「U」に於ける「正しさ」の限界を示しつつも、どちらか一方を屈服させる形で終わらなかった点は評価すべきポイントである。繰り返しになるが、今作は「勧善懲悪」映画ではないからだ。したがって、今作は現代の複雑極まりない社会的状況を仮想空間として置き換え、さらにはそれを複雑なままに描いているのである。「城」の焼き討ちなどは、映像的にもショッキングであって、既に「U」の中に引き込まれている我々にとってはあまりに過剰な攻撃に感じられたが、「ジャスティン」にもまた、引くに引かない「正しさ」があったのであろう。これから先、どんなに世界が多様化・複雑化していったとしても、“はなればなれの君へ”でも歌われている通り、他者に対して「強く優しくなれたなら」どれだけ良いだろうかと願うばかりである。

4. おわりに


 『竜とそばかすの姫』について、ここまで相当に堅苦しく論じて来たので、最終章では今作についての率直な感想も交えつつ、会話形式で総括をしてみたいと思う。ぜひ肩の力を抜いて読んで頂きたい。登場人物はいずれも私の分身くらいに思って頂ければ幸いである。


甲:
細田映画ってズルいんですよ

乙:
はぁ?

甲:
今回すずの父親役をやっていた役所広司、『バケモノの子』でも父親役だったんだ。正直『バケモノの子』は今でもまったく好きになれないんだけど、彼の演じる熊徹がめちゃくちゃ良いんだ。なんて良いオヤジなんだってなっちゃうんだよ。『未来のミライ』にしたってそうですよ。あの両親に人としての魅力なんてカケラも感じない。でもね、福山雅治の演じるおじさんがまぁーーーー良いんだよ。ホントなんなんすかね。だからね、ストーリーがしっちゃかめっちゃかでも良いもん観た気分になってしまうからズルいんだ…

乙:
めちゃくちゃ上から目線で草だよ

甲:
あと極め付けは(脚本上)都合の良いイケメンね

乙:
(まだあんの…)

甲:
だいたいね、あんなエスパーな奴はいないですよ。それがなんですか、「わかってる」「知ってたよ」「大丈夫」、んなわけあるかよ!?ってなりませんか。これまた本当に都合の良いタイミングでアシストするんですよ。シンジくんがゲンドウと対話するのにいったい何年かかったか知ってんの!??

乙:
でもかっこいいんでしょ?

甲:
うん、かっこいいね、惚れる

乙:
(ダメだコイツ…)

甲:
でもじっさい今回はすごく面白かったと思う。だいたいこんな量を書く事自体ホントに稀なので、それくらいの気持ちにはなったんですよ。これは私見だけど、細田守の描く大団円っていつもすごく良い雰囲気なんだよ。僕はそれが好きだ。いわゆる「カタルシス」ってやつ。『竜とそばかすの姫』は『サマーウォーズ』みたく心躍る映画ではなかったけれど、ラストですずが最寄り駅まで帰って来た時、出迎えた親父が「飯食うか」って聞くんだ。こんなの鰹のタタキ食べるに決まってるやん。あーもう分かったてよ、これぜったい最後同じ質問して最後の最後で「うん」って言うやつだって分かってたさ。そんなのはね、何本もサメ映画観てれば「あーコイツは生き残るな」って先の展開を察するのとおんなじですよ。でもさ、でもだよ。分かってても役所広司が言うと重みが違うんや。もうほんとズルいよ。歌唱隊の人たちもそう。僕らはああいうあったかい大人に生かされてここまで来たんですよ。ガキの頃世話になった少年野球の監督とかコーチとか、いろいろ思い出しちゃって泣いたよ。
もうホントに勘弁してくれ

乙:
あれこれ文句言う割りに細田映画が好きなのはよく分かったよ

甲:
まとめます。時代が変わっても栄おばあちゃんの精神(心)まで絶えていなかったのが良かった。ネット空間で「竜」と「ベル」がTUEEEEEEEして終わる展開じゃなかったのもGOOD。森川智之はホントああいうサディスティックな役似合うよな。津田健二郎の役、あれ要る?宮本充いい声すぎんよ。あとルカちゃんふつーに良い子だったすまんな。でも個人的にはヒロちゃんが好き。以上!ここまで読んでくれてありがとうね!

5. 参考資料


今回参考にした作品を以下にまとめます。かなり主観が入っています。

【映画】
・細田守監督作品
 『竜とそばかすの姫』を観る前にひとつだけ観ておくなら『サマーウォーズ』だと思う。次点で『時をかける少女』。でも別に観てなくても楽しめるとも思う。『おおかみこどもの雨と雪』も『バケモノの子』も『未来のミライ』も、あんまりオススメはしない。さっきも言った通りズルいから。

・『エヴァンゲリオン』シリーズ
 2007年の『序』から始まるシリーズを新劇場版と言い、それより以前の作品は「旧劇」と呼ばれる。「新劇」は今年3月に公開された『シン・エヴァ』をもって完結したが、テレビアニメ版も含めた「旧劇」を観た上で「新劇」を観るとマジでシンジくんの卒業式を後ろから見て号泣する保護者面ができるのでオススメ。

・『ターミネーター』シリーズ
 ぶっちゃけ『1』と『2』以外の記憶は消したい。でも『新起動』のサラはかわいいと思う。だってよ、服脱がないとタイムマシン乗れないんだぜ?

・『マトリックス』シリーズ
 今の流行りで言えば異世界転生とかが近いのかなとも思う。でも僕は『マトリックス』で拗らせた人間なので、スバルとネオを一緒に並べるのは脳が拒否する。

・新開誠監督作品
 僕はみんながバンプバンプ言ってた頃からRADWIMPSが好きなひねくれ者だったので、直近2作については「野田洋次郎の世界にとんでもなくきれいな映像がついた」ようにも思えてテンションがひどく上がった。でも、どっち派なのか選ばんとどっちの輪にも入れないみたいな当時の周囲の風潮が嫌だっただけで別にバンプも好き。いいじゃんどっちも聴いたって。

・『この世界の片隅に…』
 能年玲奈あらため「のん」が凄まじい演技力を披露している。演技と言うかもうあれは憑依合体である。オススメ。

・『はいからさんが通る』
 主題歌も早見沙織なんだけど、作詞・作曲に竹内まりやってあってイスから転げ落ちたのは良い思い出。いや良くはないな。

・『美女と野獣』
 元々はフランスの民話。ディズニーによる長編アニメーション映画は1991年、実写版は2017年の作品。まぁ実写の方は特にいろいろ言われるけどさ、エマ・ワトソンがめちゃくちゃきれいだからいいじゃないかもう。そんなに噛み付いてて疲れない?

・『アナと雪の女王』シリーズ
 あれだけボロクソ言ったけど、1作目は好きです。映像作品としての完成度がとても高いし、子どもが一緒に歌えるデザインなのも良いと思うからです。当時映画館に2回観に行きました。大人の事情でもう発売されてないピエール版のアルバムも持ってます。でも2作目はもう二度と観る事はないでしょう。

・『塔の上のラプンツェル』
 正直『アナ雪』より好き。とにかく水の表現が凄い。映画館行けば良かった。

・『心が叫びたがってるんだ』
 「君は心がおしゃべりなんだ」ってセリフ、ゾクっとしませんか?まぁCV内山昂輝なんですけど。

・『レディ・プレイヤー1』
 「ムダの様に思える事がいいんだ」って気持ちはいつまでも大事にしたいなと。『ドラゴンボール』の人造人間たちが、飛んでいけば一瞬のところをわざわざドライブして孫悟空を目指す、あの感じに近い。ああいう遠回りが、人生には必要なんだ…。

・『ソード・アート・オンライン-オーディナル・スケール-』
 感想まとめサイトで「この映画の感想一言で言うとどんな感じなの」ってコメントに「S すごい/ A アスナの/ O おっぱい」ってレスがあって最高に笑った記憶がある。まぁキリトくんも顔埋めてたからあながち間違いではない。

・「アイアンマン」シリーズ
 いっぱいあるのでとりあえず1作目だけでも観てはどうか。初期は軍産複合体批判の面が強い。シリーズが進む毎にスーツの装着のしかたがかっこよくなっていくのは男の子には堪らんと思う。

・「バットマン」シリーズ
 これもたくさんあるけど、ノーラン版は一度観て損はないと思う。あと最近になってAmazonプライムビデオに『JOKER』が来ていた。こっちは2回観ると精神が崩壊するから元気な時に1回だけでいい。

・『白ゆき姫殺人事件』
 僕らがネット上で何気なくやっている事は、こんなにも恥ずかしいんだという気持ちになれる。まぁ湊かなえ原作はそうね…。パンフレットで主演の綾野剛が「僕のやっている役だけが作中ウソをついていない」と言っていて当時ハッとした。人間関係はどんなホラー映画よりも怖い。


【テレビアニメ】
・『赤髪の白雪姫』
 たぶんゼン王子の方がヒロイン。ウソ、ちゃんとイケメンだから安心してほしい。彼はヒロインを抱き抱える時だけ重力を無視できる特殊能力を持っている。

・幾原邦彦監督作品
 今までいろんな作品を観てきたけど、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」を超えるセリフにいまだ出会えないし、これからも出会える気がしない。初めてこのセリフを聞いてから10年経ったが僕は何者かになれたんだろうか、という所まで思いを巡らせて、そうして考えるのをやめた。今度映画をやるらしいので楽しみ。

・『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』
 もう流石にいい歳なので、別に本編を観ても泣きはしない。でも茅野・戸松・早見の3人でカバーした“secret base”はダメ。いや全然ダメじゃないけどダメ。

・『攻殻機動隊』シリーズ
 2期の最終話のタイトルが「憂国への帰還」なんだけど、今の僕らの住んでる日本はどうだろうかってよく考える。考える割りにやってる事と言えばソシャゲのデイリー消化だからどうしようもないんだけど。

【書籍】
・『これからの正義の話をしよう』
 正直この手の本は読んでてもあんまり頭に入ってこない。これに関しては自分が悪いんだけど。だからNHKの特番とかの方が理解が深まると思う。

【記事】
・ https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66057?imp=0
 今のアメリカが抱えている社会問題がわかりやすくまとまられている。広告が多いのは仕方ない。

・ https://comemo.nikkei.com/n/n54decf0a0380
 今回の東京五輪を巡る諸問題について、非常にわかりやすくまとめられている。選手のプレーに湧き立つのも悪い事ではないが、ここで語られる「正しさ」の在り方については、一度冷静になって考えなければならない。

・ https://note.com/fudoh2020/n/ne2ec2984f7bd
 昨年プレイした「THE LAST OF US PARTⅡ」のストーリーについての拙著。ネタバレ有なので既プレイ推奨なのだが、ここでも「ポリコレ」や多様性の抱える問題に触れている。

【メディア】
・サザンオールスターズの“闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて”のMV
https://youtu.be/uSFdckpwXQc
 この動画を最後に観たのが2年以上前なので、すっかりその存在を忘れていた。だが数日前にたまたまオススメに出てきて、見返したら衝撃を受けた。今回の「正しさ」を考える上で参考になると思う。桑田佳祐が今もなおトップアーティストたる所以がわかる。彼の感受性は、僕らのはるか先をいっいるのだ。

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