短編小説『E♭の夜想曲』Op.1
5月14日
辺りは暗く、人影はどこにもない。
聴こえるのは虫の声と川の流れる音だけ。
自然の音色に混じって私、牧原奏はサックスを奏でていた。
この河川敷は、サックスの練習にちょうどいい。
近くに住宅がないから迷惑にならないし、近所の人に怒られることもない。
家で演奏すると親に怒られるから、公園や広場、色々と場所を変えたが、どこに行ってもうるさいと怒られた。
しかし、ここは人っ子一人いない。やっと見つけた私だけのパラダイス!最高!
なぜ人っ子一人いない河川敷で、しかも夜に、サックスを吹いているかというと…
3ヶ月後の8月に、吹奏楽のコンクールがあるのだ。
私は高2なのだが、このコンクールに敗退すると高3の先輩たちは引退してしまう。
大好きな先輩ともっと長く演奏するため、県大会出場を目指して、部活後に河川敷で練習しているというわけだ。
本当は学校に居残りで練習したいんだけど、先生が帰れってうるさくて...
先生、早く帰りたいんだな、ちくしょう。
あ、21時だ。お母さんに怒られちゃう。そろそろ帰ろう。
5月20日
部活終わり、今日もいつものようにこの河川敷にやってきた。相変わらず夜風が心地良い。
ここでサックスを吹いていると、無心になれるから好きだ。みんなで練習するのも楽しいけど、ここだと自分の気持ちに正直になれる。
本当にここは静かでいい。そう思いながら練習していると、少し遠くの茂みが不自然にカサカサと揺れた。
なんだろう、風で揺れているには激しすぎる。小動物か?なんだか気味が悪い。
今日は早めに切り上げようかと思ったその時、その茂みが勢いよく音を立て、喋りだした。
「よーし、そろそろ帰るか」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
私は思わず悲鳴をあげてしまった。
人が出てきたのである。え、まさか私以外にも人がいたの!?今まで散々「夜風が心地良い」とか「ここにいると無心になれる」とか一人だと思ってカッコつけちゃったんだが。恥ずかしいだろ!
そんな私の気持ちをよそに、その人はズカズカと私の方に近づいてきた。思わず身構える。
その人は30代くらいの男だった。中肉中背で、上下グレーのジャージを身に纏っている。暗いのではっきり顔は分からなかったが、丸くてどこか生気のない目をしていた。
手には缶ビールとタバコを持っていた。
するとその男は、あろうことか私に声をかけてきた。
「なに、もう弾かないの?俺ずっと聴いてたんだけど」
私は突然の出来事に言葉を失った。ここに人がいたという驚きと、突然大人の男性に声を掛けられたという恐怖で、しばらく立ちつくしていた。
何も返事をしない私を不思議そうに眺めながら、その男は私と少し離れた場所に腰を下ろし、おもむろにタバコを手にした。
ライターで火をつけ口に運ぶと、男は思いっきりむせた。
「ゴホッ!ンンゴッホゴッホ!ウェェ!」
タバコを吸う前があまりに良い流れだったのもあり、私はその可笑しさに思わず笑ってしまった。
「アハハ!めっちゃむせてるじゃん!」
すると男は、
「なんだ笑うなよ!これが大人の嗜みってもんだ、ゴッホゴッホ」
と咳混じりに答えた。
「嘘つけ!てかふかしてるだけじゃん。イキリ大学生かよww」
「違うわ、煙を吸い込まずにふかすのが今カッコイイ大人の中で流行ってんの」
「聞いたことないわ!w」
私はその男とすっかり打ち解けていた。男は話しやすく、カッコつけたがり屋で、いつのまにか最初の恐怖心も忘れていた。
男の話によると、どうやら私がこの河川敷に来るようになる前から、ここでビールを呑みながら涼んでいたらしい。最近私がサックスを練習するようになってからは、その音色をアテに呑んでいると言っていた。風流なやつだ。
「あ、21時だ。そろそろ帰らないと」
「おー、そうだそうだ。お子ちゃまは帰る時間だぞ」
「子ども扱いすんな!じゃあねおっさん」
「おう、またな」
そうして私はおっさんと別れた。
6月1日
今日も変わらず河川敷で練習。今日から衣替えなので半袖のカッターシャツが涼しい。というか少し肌寒いくらい。
そして今日もおっさんはいた。当たり前のように私の近くに寝そべりながら、ビールを呑んでいた。
「しかし毎日よく飽きずに練習してるもんだな」
おっさんは言った。
「8月にコンクールがあるんだ。ここで負けたら先輩たちが引退しちゃうから、なんとしてもここで勝ちたいの!」
「へえ、先輩思いの後輩だこと」
「でしょう?これでも学校じゃ優等生なんだから」
「優等生は自分で優等生なんて言わねえよ」
「うるさい!w」
私はサックスを吹きつつ、おっさんと談笑していた。
おっさんはいつものように冗談を飛ばしながら、タバコに火をつけた。
「ゴッホゴッホ!オオェ!...はぁ、うまい」
「全然うまそうじゃないww毎回むせてるけどさ、そこまでしてタバコ吸う必要あるの?w」
「タバコはな、男のロマンなんだよ。どれだけむせたとしても、タバコの煙を感じることに意味がある。いわばテイスティングだな」
「いやまじで意味わかんないからwww」
相変わらずおっさんは意味不明なことばかり言っていた。あんなにむせているのに何故ロマンを追い求めるのか。それが男という生き物なのか。私には理解できなかった。
6月7日
今日も変わらず河川敷。最近はここでおっさんと話しながら練習するのが一日の楽しみになっている。というかむしろおっさんと話すのが楽しくてここに来ている。
しかしそんな気持ちとは裏腹に、私の心は沈んでいた。
それは、定期試験があと1週間に迫っているからだ。
うちの部活では、定期試験で赤点をとったら練習に出られないことになっている。もちろん補習のため。
それだけは絶対に避けたい。だがしかし、私は超がつくほど勉強が苦手である。
読者の皆様の中に、
「高校生が21時に帰るなんて大丈夫?遅いし、こいつ課題やってるのか?」
と思いながら読んでいる方もいらっしゃるのではないだろうか。
ご名答。私は21時に帰って速攻で夕食と入浴を済ませて寝ているので、課題は全くしていない。しかも授業中はずっと寝ている。どうだ、抜かりないだろう!
というわけで、私は今絶賛大ピンチ。
本当はここで練習している場合ではないのだが、勉強の習慣がついていないために、こうして現実逃避しているのだ。
そんなことを考えながら吹いていると、おっさんが怪訝な顔をしながら声をかけてきた。
「ん、奏、なんだかいつもより元気がないんじゃないか?彼氏にでも振られたか?」
「本当にデリカシーないな!そんなんじゃないし」
「そうかw じゃあどうしたんだ?」
「おっさんに言っても仕方ないけど...実は1週間後に定期試験があって。私バカだからさ、勉強全然ダメなんだよ。でも今更どうしようもないから諦めてる」
「なるほど...試験範囲見せてみろ」
そういうとおっさんは、いつもは生気のない丸い目をパッチリと見開き、渡した数Ⅱの教科書をパラパラと眺めた。
「............。」
こんなに真面目な顔をしたおっさんを見たことが無かったので、私は少しドギマギしながらおっさんと教科書を交互に見つめていた。
「なるほどな。で、どこが分からない?」
てっきり「俺も分からん」的な返答だと思っていたのでこれには面食らったが、どうも本気っぽいので私も真面目に答えた。
「えーっと......どこが分からないのか分かりません」
「こりゃすごいなw じゃあ基礎からやっていこうか」
こうしておっさんとのマンツーマン授業が始まった。おっさんは意外と頭が良かった。そしてとても分かりやすく、何度教科書を見ても分からなかったところもすんなりと理解できた。
「おお、できた!おっさん頭いいんだね!見直したよ!」
「そりゃあ皆が憧れるカッコイイ大人だからな。当たり前よ」
「そういう所を直したらカッコイイんだけどね」
そんなこんなで、私はここから1週間、毎日おっさんの授業を受けることになった。あおぞら教室ならぬ、くらやみ教室だ。
河川敷に寝そべってビールを飲みながらタバコをふかすおっさんは、正直ちゃんとした大人に見えなかった。
しかしこんな一面があるとは知らなかった。
分かりやすい説明を聞きながら、なんとなくおっさんのことを知った気になっていた私は、おっさんのことが分からなくなった。
6月18日
それから毎日特訓は続き、私は最初とは比べものにならないほど成長した。
無事に試験を終え、結果を携えた私は意気揚々とおっさんの元へ向かった。
「おっさん!私赤点回避したよ!まあ平均60点くらいだけどねw」
「おお、やったな奏!今日は祝杯をあげるぞ!」
そういうとおっさんは嬉しそうに私に缶のサイダーを渡した。
「ありがとう!...でも、管楽器吹くときは中が錆びるからジュース飲めないんだ...気持ちだけ受け取っとくわ!」
「つまんないこと言うなぁ。今日は特別に練習は無しにしようぜ!」
「...確かにそうだね。今日はめでたい日だ!カンパーイ!」
そうして私はおっさんと勝利の祝杯をあげた。
6月の湿度に包まれ結露だらけの缶を握りしめながら、2人でたくさん笑った。
to be continued…
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