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3代目の闘い③〜父から息子へ〜

1999年3月  

創業者である祖父がたおれた。

18歳であった私は当時、大学進学を控えていてた春休みであった。

長かった受験戦争から解放され、
新たなステージへ心躍らしていた矢先のこと。

永遠に生きるのではないかと思うくらい、
絶対的精神的支柱であった祖父がたおれたことは
衝撃以外の何者でもなかった。


祖父を看病した時、
父と2人きりになる時があった。


不意に父が私に問うた。


「社長の仕事はなんだかわかるか」


禅問答のようなその問いに
齢18歳の若造が答えられる由もなかった。

返答に戸惑う息子を暖かく見つめるように


「社員の生活を少しでもよくすることだ」


妙に頭の中にスッポリと入る言葉であった。

当時の私はその意は理解できなくとも
「音」として脳に刻まれた。

あれから10年


2009年3月13日


今度は父が天に昇った。

そして私は
28歳で事業を承継した。

10年間突っ走った。


無我夢中であった・・・


何をしたか覚えてすらいない 
わけがわからなかった。

気がつけば30代最後の年を迎えた。

私はやや精神的に疲弊していた。

おニャン子クラブではないが
1年くらい「普通の男の子」に戻り、
ニュートラルになりたかった。

そんな私にまた壁が立ちはだかる。

あの未曾有のウイルスだ。

景気は谷底に落ち込み、
しかも営業活動すらできない。


様々な投資により、コストも高まっている。

当期の予想赤字は1億・・・

「勘弁してくれ」と思った。 

この壁に立ち向かうエネルギーが湧かない・・・

そんな時


10年前の志を思い出した。


そしてあの時の父の言葉を思い出した。


外部環境に負けない会社を創るのではなかったか?


10年前、リーマンショック時
2008年12月
私は神戸から帰省していた。


思えばこの時が今生父と過ごした最後の時間となった。


父と話す時間があった。 


流石の父もこの景況に疲弊しており、
給与カットやリストラも余儀なくされた状況に心を痛めている様子だった。 

「がんばってこいよ」

年が明け、神戸に戻る私に
父は「最後の言葉」をかけた。

俺は父から何を託されたんだ?

如何なる環境変化においてもリストラも給与カットもしない企業。


「高収益高水準待遇企業」

父の意志を受け継ぎ、今度こそこの状況に勝つために今まで突っ走ってきたのではないか?

今試されている時ではないか?

私は今一度心を燃やした・・・

この状況下でできることは全てやった。

給与カットやリストラは一切しなかった。

当期はギリギリ黒字を出した。

取り敢えず及第点はとった・・・・


















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