『ソン・ランの響き』を観た個人の雑感
【注意】個人の雑感です。ベトナム映画『ソン・ランの響き』のネタバレを含みます。素敵な映画との瑞々しい出会いを大切に、未見の方はどうかご遠慮ください。
エンドロールが終わりパッと照明が灯る。
一本の映画を観終えたとき、私は劇場の椅子に深く沈み込んだ体を動かせないことがあります。
皆が次々に席を立ち歩き出す。現実の世界へと戻っていく。
けれど私はまだ、作品の空気を吸って膨らんだ心をふわふわと高く浮遊させたままで、長く息を吐いて、必死に体と心を一致させこちら側へ取り戻そうとしているのです。
どうにか立ち上がり足を動かすものの、まだ余韻に浸っていたい気持ちが駄々をこねて騒ぐので、説き伏せるのに骨を折らねばなりません。
劇中、リン・フンの舞台を観終えたユンも、現在の自分を取り戻すのに少しの間が必要だったのでしょうか。しばらく立ち上がれず、煙草を吸って切り替えて……それでもリン・フンの顔を見たら結局帰ってしまう。歌が流れるラジオに伸ばした手も宙を掻く……。
私は初回鑑賞後、劇場を出てどこへ向かえば良いのか考える隙もないほどにぐちゃぐちゃになった思考を抱え、切なさと幸福感を噛み締めました。
そしてこうして感想を書こうとするまでに3回の鑑賞を経てなお言葉にするのはとても難しく、筆を悩ませています。
ユン役のリエンさんが、「台本を読み終わったときに、物語が終わってしまったことへの失意のようなものを感じた」とインタビューでお話されていましたが、きっと鑑賞した多くの人が同じように感じたのではないでしょうか。
あの終わり方だからこそ心揺さぶられるというのもあるかも知れませんが……。
この作品を観ていてまず思ったのは、画がとても美しく、そのレトロな色香と画面比がマッチしているということでした。
映画が始まってものの数分で、レオン・レ監督の撮る画にすっかり心を奪われてしまいました。
フォトグラファーでもあると知り納得したのですが、本当に毎秒シャッターを切っても全てのシーンでポストカードに出来るようなバランスの良さで、瞬きも惜しくなりました。
メディア化される際は是非ともBlu-rayもお願いしたいです。
『ソン・ランの響き』の他にショートフィルム『Dawn』と『Talking to my Mother』を観て、「鍵」「鏡」「窓から射す光」「影」「やかん」「お茶」「テーブル」「煙草」「吹き抜けの階段」等モチーフの使い方が素敵だと思いました。
私はウォン・カーウァイ氏とクリストファー・ドイル氏の撮る画が好きなのですが、モチーフの使い方や色味が醸し出す空気は確かに似ている雰囲気だったかもしれません。
しかし、『ソン・ランの響き』が凄いのは、その画的なアートとも言える映像美にしっかりとした物語と脚本が備わっているという点です。
(※何かを褒めるときに比較して何かを下げるやり方は嫌いですし、私は決してソン・ランの方が上だ下だなどという気は微塵もありませんので誤解のないようにお願いします。ちなみに私は『ブエノスアイレス』が滅茶苦茶に好きです。)
物語はカイルオンの演目と重なる部分があり、道筋が見える王道とも思えるのに、なぜか鮮やかで飽きさせない。
それは監督の脚本のおかげなのだと思いました。
伏線回収とまでは言いませんが、一度最後まで観るとなるほどとなる脚本の上手さを感じました。
登場人物の人となりや気持ちを現す押し付けがましい説明的な台詞はないけれど、何気ない日常のひとコマひとコマからユンの優しさがこぼれ落ちてくるように伝わってきて魅了されました。
実は仲の良い素敵な両親の下で育った優しい人なのだと分かるので、その幸せが奪われてしまったことへの悲しみが際立ちます。
これはもちろん演じているリエンさんの素晴らしさあってのものですが。
彼は本当に初めてとは思えない演技力でした。
目の、手の、非言語の演技がこんなにも訴えかけてくるなんて。
監督がミューズだと言うのも頷けます。
私は趣味で文章とも言えないような文字の羅列を書くことがあるのですが、レオン・レ監督の表現力に憧れずには居られません。
私が表現したいものはこれなんだよなぁと。
例えば、「本当に些細な何気ない幸せを感じるとき」を問われたら、これを読んでくださっているあなたはどんな情景を思い浮かべますか?
「些細な何気ない、けれど確かに人の心を動かす瞬間」を表現することはとても難しいと思うのです。
劇中、心やその動きを描写したシーンがいくつもあったと思いますが、ユンがちまちまと唐辛子の種を除けるのを見てリン・フンが微笑むシーンなどは、もう表現の上手さに打ちのめされて天を仰ぎ見るような気持ちで堪らなくなりました。
普段から余裕と優しさを持った豊かな心からでないとああいった表現の数々は出てこないと思うので、こぼれ落ちてくるように伝わってきたユンの優しさはレオン・レ監督の優しさでもあるのかなと思いました。
私ももっと心に余裕を持って小さな幸せを感じ取れる人間になりたいです。
それが感性を磨くことに繋がる気がするので。
話を映画に戻しましょう。
ユンとリン・フンは一見全く別の道を歩んでいました。
けれどカイルオンによって出合った魂はとても似ていたように思います。
正反対とも言えそうな位置にある無彩色の平行線が、ほんのひと時交わることで鮮やかな色彩を持ちました。
線は離れもう二度と交わることはないのか……そう思うととても悲しい気持ちになり翡翠の井戸を覗き込んでしまいます。
願わくは、リン・フンの人生にユンのそれが重なって、線が鮮やかに続いていくことを。
また、カイルオンという歌舞劇も、『ソン・ランの響き』の物語もずっと語り継がれていくことを願います。
監督の念願である舞台も実現して欲しいですし、世代を超えて愛される古典となって欲しいです。
今、コロナの流行によって映画や舞台もダメージを受けているからこそ色々と考えてしまいます。
劇中でも描かれますが、生活と芸術と政治は切り離せないものです。
一番に利用されたり削られるのはエンタメ娯楽かも知れないけれど、そうしたものこそ辛いときに必要だと私は思います。
心が死んでしまっては何もできません。
劇団の解散や、劇場や映画館の閉館がとても心配です。
この状態から抜け出したときに取り返せないものがあっては悲しすぎます。
もちろん抜け出す前に命を失ってしまっては元も子もありません。
必要なのは保証、支援です。
それを得られない今の状況に憤りを感じます。
この気分のまま記事を終えるのは後味が悪いので、衣装と音楽、食べ物の話も少しだけしたいと思います。
私は大学時代に服飾史を専攻していたので、映画を観ると衣装にもかなり目が行きます。
民族衣装や歴史衣装(特にアジア)が大好きなので、そこを少しでも刺激されるとよりのめり込んでしまいます。
この映画においては、やはりカイルオンの衣装やメイクが華やかで写真を眺めているだけでもわくわくします。
あれだけのスパンコールや装飾が施された衣装は、さぞかし重く暑く俳優さんたちは撮影に苦労されたのではないかと思います。
しかし劇中劇の衣装以外も、やはり身につけている衣服や髪形はその人を現す記号となるので、ただのラフなタンクトップやシャツ一着を取っても登場人物の人となりを教えてくれて面白いです。
音楽についての知識はないのですが、サウンドトラックも素晴らしかったと思います。
劇中劇の歌も音源にして頂きたいところですが、個人的には『Night Ride』『Crying Freeman』『Elegy』あたりが特に好きです。
エンドロールで流れる『Opus Posthumous』の歌声は監督なのでしょうか?
俳優、ダンサー、歌手、フォトグラファー……監督多彩過ぎではないですか……。
個人的な趣味嗜好として、映画に出てくる料理やその国の料理を作ったり食べたりするというのがあるので飲食のシーンもよく観てしまいます。
ふたりが食べていたのはフォーではなくてブンかなとか、ユンが家で食べていたのは何だろうとか気になりました。
リン・フンが「人」と「物」と「場所」によってタイムトラベルが可能だと言っていましたが、私は「音」や「匂い」もそうではないかと思います。
サウンドトラックを聴いているとき。ベトナム料理を食べているとき。私は『ソン・ランの響き』を観ていた劇場の椅子に座っているような気がするのです。
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