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【解剖実習】損する人、得する人

解剖実習は、医学部の中でもかなり印象に残るイベントである。多くのドクターが今でも「 解剖実習の事は記憶にある」 と 言っていると教授がおっしゃっていた。そのぐらい重要なイベントだし、 それに比例してハードで体力を使う時間であることも確かだ。

今回は解剖実習を終えて、自分が感じた人間性についてここに文章書いてみようと思う。

これは決して誰か特定の人に対して悪口を言いたいわけではないし、個人のことを指していると言うわけではなくて、単純に傾向として、もしくは人間観察として考えたことを書くと言うものだと言うことを了承してほしい。

ではいこう。


予習をしてくる人、予習をしてこない人

まず一番初めは勉強系で分けた。しかも、それはその場で頑張るかどうか、もともと知っているかどうかというより「その日のために準備をしてきたか」という点に注目してみた。予習というのは 解剖実習でも非常に負担の大きい時間の1つで、かつ非常に生徒に任せられているため、各生徒によって大きく差が出てしまう要素の一つである。

もちろん、部活動が忙しいなどの個人的な理由で予習をできない生徒もいると思う。 いくつかの仕方ない理由はあれど、予習をしてきたのかどうかというのはかなり大きなジャンルを分類する要因になる。

ちなみに個人的には予習することをおすすめしている。なぜかというと予習をした方が100万倍実習が「見える」ようになるからである。全体像も見えるし、その場でやるべき作業も見えるし、自分が何をやっているのかも見える。勉強すればするほど実習中の解像度が上がり、非常に楽しくなる。だから不思議なアイロニーだが、実習が辛いと思っている人ほど予習に時間を込めて丁寧にやるべきだと思う。

ちなみに予習をして来なくても、班全体として合格できればその日の解剖実習を終えられるというような仕組みになっているので、最低限のことをしている人間としている人間と、自分のできる限りのことをしている人間とでは、本当に大きく出ている、というのが本当のところの現状だ。

私はこれは何も実習に限ったことではなくて、大学生活 ひいては人生全部に当てはまると思う。見えないところでどんどん差がついて行って、いつか取り返しのつかないものになる。差をつけられた側の人間はその差を見て絶望する。しかし差をつけた側の人間はそれが当たり前だと思って進んできているから、何も感じないし むしろそのまま進み続ける。
解剖実習の努力の差はまるで社会の縮図のような気すらする。

その場で頑張ろうとする人、手を抜こうとする人

次は現場での話だ。事件は現場で起こる。

予習はして来なくても その場で頑張ろうとするという種類の人間もいる。そして もともと地頭が良かったり教科書を読むのが得意だったり 基本的な知識があったりすれば、意外と予習に時間かけなくても その場で手引きを読んでやるべきことを一つずつやっていけば 実習には十分に対応できる、という学生もたくさんいる。
その場で参考書や手引き書を開く、もしくは iPad に入っている PDF 版の参考書を片手に自分で考えながら作業を進めていくという 猛者もいる。基本的にはみんな iPad などの資料を確認しながら剖出を進めていくため、それ自体は何ら 珍しいことではないのだが 予習をすることが当たり前になっていた私からすれば初見で教科書を読んでその場で理解して しかも 正確な作業ができるというのはすごく対応力と学習能力を感じる。

本当に理解をしている人、表面だけでなんとかしようとする人

さて上記のように、予習をしてきている、もしくはその場で 参考書などを読んで 作業を積極的に進めようとする人間がいたとしても、そこから さらに2つのパターンに分かれるという考察に至った。

それは本当に理解をしているのか、それとも表面的な理解に留めてしまっているのか、という差である。この理解の差は 一見はわからないし 本人たちもそこで差がついてるというのはなかなか感じにくいが、全体像 わかった上で人のことを客観視してみると 意外と見えてくる。


本当に理解をしている人はその日にやるべきことをちゃんと把握しているし、専門用語…と言うと 少し大仰 だけど、例えば 迷走神経とか星状神経節とか半腱様筋とか、コッホの三角とか、前十字靭帯とか、アブミ骨とか、前斜角筋とか。そういう「知っておかなきゃいけない単語」を使って会話をした時に、ちゃんとその単語のままで 会話についてきてくれて理解している。

一方表面だけでなんとかしようとする人は、単語が完全に理解できていないことが多い。筋肉がいくつとか神経がいくつというところまで覚えているが、その日その日に覚え直しているため 細かい 固有名詞 というところまでは 掘り下げずにまだ少し 曖昧なところで理解をやめてしまっている。こういう勉強法だと、後になってあんまり残っておらず、試験勉強としてまた初めからやり直す必要が出てくる。

また、実習中もものすごく差が出る。完全に理解している人は一人でずーっと体力が尽きるまで作業することができる。なぜなら自分がやるということに対して ゴールが明確だし 何をやるべきか がしっかりと分かっているからだ。それに対して 理解が不十分な人は、自分の作業が不安だから何度も変わってもらう必要があったり 、他の班のところに気に入ったり、とりあえず一部だけやって後は人に任せるという行動に出ることが多いような気がする。


メンタルが強い人、メンタルが弱い人

解剖実習はメンタル戦である。自分との戦いの部分がすごく大きい。1日中 夜遅くまでかかることもあるし、何より一番辛いのは人間関係だと私は思う。班員は番号で決められているから、同じグループとか今まで仲良かったというわけではない人たちと2ヶ月半 ほど一緒に協力して結構な作業量のことをこなしていかなければいけない。それが想像以上に辛い。もちろん、良いメンバーが集まってれば精神穏やかに終わることもあるし、その逆もまた然りだ。

しかも班によって終わる時間はかなりバラバラになってしまうから、自分のせいで遅くなってしまったり、逆に早く帰りたいのに他の人が思うような行動してくれなかった時に気が荒むことはあると思う。

そのような人間関係が根本的な原因になっている負担か、もしくは勉強の負担が一番大きい。


勉強の負担は捉え方か、もしくはそもそもの自分でやるって決めている量を変えてしまえば対応できるが、自分の勉強量を減らすとそれに比例して解剖実習 作業中の負担が大きくなる。トレードオフなのだ。それも精神的に蝕まれる要因だと思う。

メンタルが強い人は その 佳境の中で自分でどうしていくかというのをもがいて苦しみながらも見つけていくことができる。そしてそうやって乗り越えた先にある 答えが、本人がそれまでの人生で ぶつかることなかった壁に対する答えであって、そういう人は 人間としても同時に素晴らしい成長の機会に恵まれたと思う。

逆に メンタルが厳しくなってしまう子もいる。それは本人の問題というよりもむしろ 外部要因であったり 本人以外のところが原因になってる場合もある。例えば 他の範囲が全然仕事をしてくれずに自分の負担がものすごく大きくなっているとか、班員の誰かがサボっていて班の雰囲気が悪くなっているとか、勉強に煮詰めすぎて自分を責めてしまうとかそういうところが大きいと思う。

確かに はっきり言って 解剖実習は大変だし それまで勉強してきた分の比じゃないぐらい 詰め込まないと納得がいくぐらいの勉強はできないと思う。でもメンタルとか自分の体調を壊してしまったら 元も子もないし、その根本的なところが一番大事だと思うから、ありきたりな言葉ではあるが 無理をしすぎずにその最低限のラインは保ったまま、頑張って欲しいと思う

自分で抱え込みすぎる人、大方を人に任せる人

背負い込んでしまいがちの人には特徴がある。それは自分で背負い込みすぎるということだ。私は別にそれがいいとか悪いとか言いたいわけではないが、傾向として 班員は自分で頑張って自分がリードしようとするか、もしくは人にリードを許して任せようとするかのどっちかに分けられる。

心の中では誰しもが負担を減らしたいと思っている。しかし そんな中でも自分にムチを打って勉強するか、もしくは他人に甘えてしまうかという2つに分けられる。自分で何とかしようとする人間は大抵の場合 自立していて責任感が強い人が多い。自分でなんとかしなきゃ という意思があってちゃんと勉強に取り組もうとする。そういう人は性格として医者に向いていると思う。

しかし 問題なのは自分の中であまりにも 抱え込みすぎてしまうことだと思う。完璧主義だったり 逃げ方を知らないと自分で全部やらなきゃというような発想になってしまうし、他のメンバー もこの人に最終的には任せようというような発想になってしまって、ますます負担が増えてく負のループである。

かと言ってしょっぱなから他人に任せるという発想は甘えていると思うし、何より全然自分のためにならないから本当に時間の無駄になってしまう。だから自分のやるべきことはちゃんとやるしできるとこまではしっかりやるっていう自分のプライドを持った上で、その上で わからないこととか人に頼らなきゃいけないところはちゃんと自分を許して人に頼ることができる そういう 振る舞いをすればいいのかな というのが結論だ。

班員に頼られる人、班員に頼る人

さて 前の話に続きだが、だいたい 解剖実習が進んでくると、この人は頑張る。この人はあんまり頼りにならない。という風に班員の中で暗黙の了解ができ始める。その時に生じるのが班員に頼れる人か班員に頼られない人かという 区分である。

だいたい 初めから頑張り始めた人は、後半でも頑張るし 途中でもちゃんと勉強して臨んでくる。それは本人たちにとってそれが当たり前だからである。そして当たり前の基準を高く保つことに成功した人間は、人よりも勉強量が増えて、人よりも知識が増えるから、当然のように実習中の解像度も上がり、班員や他の範囲からも多く 頼られるようになるし、他の 違う 班の人たちからも頼られるようになる。

誰しも早く帰りたいと思っているし、誰しも永遠に 解剖実習をしていた人間というのはいない。だからこそちゃんと勉強してきていてその日にやるべきことをが分かっている、もしくは 作業としてすでに完了している人というのは非常に市場価値が上がる傾向にある。

それは私は 人間の性だと思っていて、人間は なるべく楽したいと思っているから 、その知識がある人のところに行けば 魚がもらえるということを学んでしまえば 無限にその人のところに楽をしたい人間は通い続けることになる。
でもこの話は有名な通り 魚の取り方を教えてもらわなければ自分で自立することはできないから、いつまでもいつまでも聞いたり個人に頼るんじゃなくて、最終的には自分でちゃんと勉強して、相談しに行く、もしくはせいぜい 確認する、他の班の進捗を参考にするぐらいには自分でちゃんと自立して勉強していないといけないと思う。


とにかく自分でやろうとする人、すぐに先生を呼ぶ人

これは後者の方が悪いような言い方をしているけど、私は 白状すると後者のタイプだった。私自身は、すぐに、というか結構早い段階で先生を呼ぶことをがいいと思っていたし、 それに対して違う意見を唱えている班員もいた。だから今回はそのことを書こうと思う。

前者の意見の主張は、「先生を呼んだら負け」というものだった。実習は自分でやるべきだし、自分の勉強なんだから初めからそんな先生に頼るんじゃなくて自分たちで考えて意見を出していかなきゃいけないという主張である。

そして確かにそれも一理あると思うし 非常に有意義な 解剖実習になる意見だと思う。

その一方で 私は早い段階から先生に質問することが多かった。 それはなぜかと言うと、 わからないことを自分で考えていてもわかるわけがないし、何より 勘違いをしていて違うものを認識していた時に、間違った勉強をしてしまうことになるから、ある程度作業が終了してその日に確認するべきものの目処が立った時に、人に頼るということに躊躇しないで先生の意見も積極的に伺うべきだと私は思う。

先生に聞くというのは妥協ではなくて、自分でできるところまでをしっかりとやって、勉強もしっかりとやって、その上で仮説を持った上で先生に最終確認するというのが、一番確実だし、一番早いし、一番勉強になるのではないかと私は思っている。

わからない人同士で いくら 話し合っていても結論は出るわけがないし、何より そこから新しく 資料を調べたり 教科書を読み直したりしてると非常に時間がかかってしまう。

それならその参考書を読む時間は実習の前に終わらせておくべきだし、その上で最速で実習に取り掛かって作業が終わったら 有識者に意見を伺うというのが一番早い道 なのではないかと私は思っている。


楽しんでいる、辛がっている人

最後は、楽しんでいる人と辛がっている人という区分だ。 正直 解剖実習を楽しんでいる人なんて本当に一握りもいないぐらいの割合だと思うし、なんならいないかもしれない。でもちゃんと勉強して自分がわかっていることを実際に目で見て勉強していくというところまで落とし込めれば、解剖実習だってすごく楽しいものになる。
捉え方 一つで、勉強の方法 1つで、長い長い実習期間が楽しくも辛くもなるのなら 、そしてそれを選べるということを今あなたは知ってしまったのだから、 なら 自分が楽しんで しかも 有意義な 勉強ができるような時間に変えていくという選択をしてもいいのではないかと思う。

まとめ

もしこれから解剖実習に取り組む人間がこれを読んでいるなら、是非その人には時間を有意義に、そして本当に貴重な機会を最大限利用して、勉強と実習に臨んで欲しいと思う。



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