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20代の老成

響け!ユーフォニアムというアニメが好きでした。人生でいちばん最初に好きになったアニメですが、「好きだった」と過去形なのはちゃんと理由があります。

好きになったのは中学生の頃。市内の吹奏楽部員コミュニティのなかで流行っている、という理由で見始めたと記憶しています。何度もアニメを見返し、映画もコンプリートしました。放映当初はマイナーアニメだったので、劇場版の上映劇場が少なく、市街地にある古く小さな劇場まで友人と足を運んだのは良い記憶です。

アニメがきっかけではありますが、その先の結末を知るために原作も全巻購入しました。本当に、心の底から「ハマった」ジャンルのひとつだと思います。

しかしこの春放送された3期の途中で違和感を感じ、結局その違和感を拭えないまま完結に至りました。
1クールで濃密な一年を描き切るがゆえの駆け足感。原作の改変。ファンの同調圧力。ストーリー上の細かい話をすればもっともっと違和感を覚えましたが、このブログではそれについてどうこう言いたい訳では無いので割愛します。黄前黒江論争に足を突っ込む気など、さらさらありません。

というか、本題はそこじゃないです。後述するのは、「自分が変わったからつまらなく感じるようになった」という旨の話です。



閑話休題。本題に入ります。

このアニメの1期と2期は、10代のわたしに強烈なインパクトを残しました。高坂麗奈が放った「トクベツになる」という言葉や、黄前久美子が放った「上手くなりたい」という言葉がとにかく刺さったのです。

中学生〜高校生にかけての私なんて、プライドと承認欲求の塊でした。それはもちろん己が描く将来像にも色濃く影響していて、「特別な何者かになりたい」みたいな言葉で理想像を描き、平凡さを忌避していたように思います。

そんな私ですから、飽くなき向上心で上を目指す登場人物たちの姿が、それはそれはかっこよく見えましたし、彼女たちにシンパシーを感じました。

麗奈がトクベツになりたいと言えば、わかる!と首をブンブン振っていました。久美子が上手くなりたいと叫べば、泣きながら共感していました。

全部全部共感の連続で、直接会ったこともなければ会えるはずもないアニメの登場人物に、自己を投影していました。
なかでもことさら麗奈に憧れました。私もかくありたい!と強く思い、トクベツになる、みたいなことへの拘りを持つことを肯定された気分になりました。

貴重な自己形成の期間を、この肥大化した自己意識と共に過ごしたわけです。ゆえに、先の思想が今は脳内からきれいさっぱり居なくなったかと言われると、答えはノーだと思います。今でもプライドは高いし承認欲求もあるし、正直自分のことは嫌いじゃないです。

でも、「私は何者かにはなれない」みたいな諦めと折り合いはだいぶついたと思います。
少なくとも、彼女たちの「トクベツになりたい」という言葉に焦がれ、シンパシーを感じることは無くなりました。青春って眩しいなぁとぼんやり感じるだけになり、一抹の寂しさを覚えます。




ユーフォを好きになってから10年(…?)くらいの月日が経ち、あの時お姉さんだった登場人物たちはいつのまにか歳下になっていました。

その間に私は高校を卒業し、大学受験に失敗し、なんとか滑り込めた大学に入るため地元を離れ上京をしました。いわゆる学歴コンプ、みたいなものも抱えています。特にこれといったアクションを起こさないまま平々凡々と就活を始めましたし、人生を変える大恋愛もしていません。

そんなわけで、己がちっぽけな存在であるということを、遅ればせながらやっと自覚するターンに入りました。不本意ながらも、もう「トクベツ」にはなれないんだ、と悟る要素を回収し続ける日々です。

だから、私はこのアニメへの情熱を失ったのかもしれません。20代になって失ったかつての希望を直視するには、私はまだ大人になりきれていないように思います。



蛇足的まとめ。
要は響けユーフォニアムが好きだったのは自分を重ね合わせることが出来たから。今や価値観が変わってしまった以上その楽しみ方を出来なくなってしまい、結果的にかつてほど面白いと思えなくなったんじゃないか、という話です。

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