児玉源太郎

【私の理想のリーダー】児玉源太郎

今回は“私の理想のリーダー”ということで
児玉源太郎を取り上げてみたいと思います。

「坂の上の雲」を読んで、児玉源太郎を知ったのですが、
読んでいるうちにその“智謀”と”人徳”に感動し、
いまでは私の理想のリーダー像となっています。

日本史の教科書でもあまり出てこない人物ですが
明治時代の日本を救った1人であることは間違いないと思うので、
今回取り上げさせて頂きます。

※以下、「坂の上の雲」を読んで理解した内容となるので
 実際の史実と異なる可能性がございます。予めご了承ください。

■「児玉源太郎」とは?

明治を代表する政治家で、
台湾総督や陸軍大臣、内務大臣を歴任。
特に日露戦争では満州軍総参謀長として
日本を勝利に導いた1人として有名な人物です。

■【ここが凄い①】天才作戦家

下士官からスタートし、異例のスピードで昇進を重ね、
陸軍大将にまで出世した児玉源太郎。

日露戦争前は台湾総督として、後藤新平を右腕に起用し、
台湾のインフラ整備に取り組み、近代化に成功、
台湾の人々からも多くの支持を集めました。

日露戦争では、陸軍の参謀次長として
“旅順要塞攻撃”“奉天大会戦”などで活躍。
特に“旅順要塞攻撃”では、
乃木軍が約4か月間もかけて攻撃していた二〇三高地を
児玉源太郎が作戦に加わったことで、僅か4時間で陥落させました

また日本が勝った状態で戦争を早期終結させるために
奉天大会戦で勝利をおさめると、自ら日本へ帰国。
東京にいる政界の巨頭に停戦を働きかけたことで、
日本の勝利につなげることができました。

以上のことから、
”百年に一人の戦略家””名参謀長”と呼ばれ、
ドイツ陸軍のメッケル少佐に至っては戦前から
「児玉がいる限り、日本が必ず勝つ!」と予言した程でした。

■【ここが凄い②】日本を救うために自ら降格

日露戦争前に、参謀次長として
元々作戦を練っていた田村怡与造が過労により急死。

田村の穴を埋めるのは誰か。
陸軍が重大事態に陥っていたところ、
児玉源太郎が自ら立候補し、
内務大臣(副首相格)から2階級降格し参謀次長に就任しました。

※実際は降格ではなかったという説もあります。

更には児玉自ら、
財界大御所であった渋沢栄一を説得し、
国家歳出総額の約25倍もの戦費を調達

また課題であると考えていた陸軍と海軍の関係修復のため
海軍大臣の山本権兵衛の元を訪ね、陸海対等の条例を結び
陸海の和が児玉源太郎によって図られました。

こうして児玉源太郎の無私の精神と人徳により
日露戦争前に財界、政界、陸海軍一致の
総力戦体制を整えることができました

■【ここが凄い③】常に謙虚で、仲間思い

児玉源太郎は、先輩にも後輩にも、また大衆にも
よく万人を惹きつける魅力をもっていると言われていたそうです。

というのも、
天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、
地位や権力に固執することようなこともなく、
何事にも公明正大な心事で当たっていたと言われています。

実際、先に述べた“旅順要塞攻撃”で
攻略に手こずり、日本に多大な犠牲者を出した乃木希典に対して、
戦後陸軍内部から乃木を非難する声が上がった際、
児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と
自らの手柄を話すことなく、仲間を擁護したほど。

児玉源太郎の人柄の良さに、
小説を読んでいて私自身かなり感動しました。。

■戦後の早すぎる死。。

「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ」
「戦場として荒らした地は、終戦の後は以前にもまして住みやすい環境に直す責任がある」

そう話していた児玉は戦後、
南満州の経営を検討すべく、南満州鉄道創立委員長に就任します。

しかし就任10日後、就寝中に脳溢血により急死してしまいます。
終戦後わずか10か月後のことで、
日露戦争に国難を切り抜けるため心血を注いだ結果の
過労も原因としてあったのだと思います。。

児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして
棺に寄り添う乃木希典の姿が見られたと伝えられています。

以上になります。
長文読んでいただき有難うございました。

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