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現実なんかより想像や妄想の方がよっぽど重要だという話

想像や妄想の世界のほうが、現実なんかよりよっぽど重要だ。という話がしたい。

我々が現実よりも多くの時間をつかっている想像の世界。そして死ぬ直前、ベッドの上で、我々は最終的に、自分がつくった想像の世界で息を引き取ることになる。

現実を変えるために想像力があるんじゃない。想像力を豊かにするために、現実で様々な体験や知識を「素材」として集めるのだ、という話をこれからしたい。

現実世界よりも想像の世界をほうをこそ、上位に置いてみようという、いわば思考実験の提案でもある。



人間の想像力は、世界を大きく変化させてきた。

人間が空を飛ぶことを想像したから飛行機が生まれたし、離れた場所で会話することを想像したから電話が生まれた。月に行ってみたいと思ったからロケットが生まれた。

誰かが想像した未来に向かって、この現実世界は変化してきた。

我々は、誰かがむかし頭に思い描いた世界を今、生きているのだ。



想像の世界は自由だ。現実のような物理的制約もなければ、倫理的な制約もない。

身体ひとつで空を飛んだり、誰とどんな関係だって結ぶことができる。

人間の想像力が現実世界を変化させるのであって、現実世界が、人間の想像力を制限することはない。

そう。本来は。


自分の想像力を制限してしまっているのは、あくまで自分自身なのだ。



本来、想像力も世界も無限の可能性に満ちていた。自分は何にだってなれるし、何をしたっていい。

しかし我々は生きているうちに、泣いても空腹が満たされないこととか、世界には重力があることとか、欲しい物を手に入れるにはお金が必要になることとか、つまりは自分にはできないことがけっこうある、ということを徐々に学習していく。

現実は想像のように自由にはならないことを、学習していく。


かけっこで一番になるところを想像した。でも、もっと足の早い子に負けた。彼は、かけっこでは自分の思い通りにならないことを学ぶ。

そしてかけっこ以外の方法で、自分の想像を現実にする方法を模索しだす。

彼は自分自身について、「運動よりも勉強が得意」というイメージを持つ。彼が自分の将来について想像するとき、オリンピックの表彰台に立つ姿よりも、スーツを着てオフィスで働く自分を想像するようになる。

彼はその想像にひっぱられ、日々の行動を選択する。運動部ではなく文化部に入るかもしれないし、校庭で遊ぶ友人よりもゲームの話で盛り上がれる友人を選ぶかもしれない。

自分の学力に見合う大学を選び進学し、自分の大学に見合う就職先を選ぶのかもしれない。

このように現実の制約が自分の未来の想像を制約し、日々の選択はその制約の中でなされる。

この選択の連続によって、現実は形作られていく。


想像したことが現実にならなかったとき、我々は傷つく。

だから、現実になりそうにないことは、次第に想像しなくなっていく。


頭に思い描くことはどんどん「現実的」になっていく。現実的でない想像は妄想とよばれ、無駄な思考、現実逃避とみなされるようになる。



いつしか自分は、妄想すらしないようになっていた。自分の日々の思考は、「この現実を少しでもよくするために、今の自分ができることはなんだろうか」と、とても現実的なことを考えることに費やされるようになっていた。

もちろんそういう、地に足のついた思考も大事だとは思う。

しかし、しかしだ。

なぜ、本来もっと自由であるはずの想像力を、自分はこんなにも現実的な思考にばかり使っているのだろう……?ということに、あるときふと、思い至ったのだ。

現実的に自分は、空を飛べないかもしれない。でも、空を飛ぶ妄想をなぜしないのだろうか。うちのかわいいねこと会話する妄想を、なぜしないのだろうか。

物語をつくる才能は自分にはない、自分は物語を消費する側だ、となぜ決めつけていたのだろうか。なぜ漫画やアニメを見て、自分でそれをつくろう、とは思わないのだろうか。

いや物語をつくることはできないにしても、そもそも物語を想像しようとすらしないのはなぜなのだろうか。

なぜアニメや漫画では語られていない部分を自分で想像してみよう、と思わないのだろうか。

そんな妄想は日常茶飯事だ、という人にとっては、一体何を言ってるんだ?と思われるかもしれない。

しかし自分は真剣なのである。

自分には物語を思い描く権利も能力もあるはずなのに、まったくそれをしてこなかった。そしてそのことについて、今本気で、自分はなんて大きな損失をこれまで被っていたのだろう、という衝撃を受けているのだ。



「思考は実現化する」みたいな言説をどこかで目にしたことはないだろうか。あるいは「引き寄せの法則」とか。

つまり頭にリアルに思い描いたことは現実になるのだ、という考え方だ。

自分としての見解は、経験的にも、たしかにそれは完全ではないにしろ、部分的には正しいと思っている。

上で例に出した青年は、「自分は運動より勉強が得意だ」とリアルに思い描いたからこそ、オリンピック選手にはならなかった。たしかに思考は実現化している。

自分が物語を想像しなくなったのは、もしかしたらこの考え方を信じたからかもしれない。

思考は実現化する。だから、現実になってほしい未来を思い描こう。
逆に、ネガティブな未来は、考えないようにしよう。

そんなふうに自分の想像をコントロールしようとした結果、自分は自分の想像力を、「現実を変えるためのツール」にしてしまった。

妄想なんて時間の無駄だ。もっと現実的なことを考えないと。あ、いや、現実的すぎてもいけない。もっとポジティブで、ワクワクするような未来を想像しないと。いかんいかん。失敗したときのことを考えすぎてはいかん。そっちのほうが現実になってしまう。

自分の想像は現実に影響を及ぼすのだから、突拍子のないことを考えすぎてもいけないし、マイナスすぎることを考えてもいけない。あくまで楽しくて、がんばれば実現できるような、楽しい未来を想像しないと。

望む現実を引き寄せるために、想像力を使わないと。

この発想は、本来もっと自由だったはずの想像力を、ただ単純に、現実を豊かにするためのツールにしてしまったといえる。


逆なのだ。まったくの逆なのだ。

自分だけの想像の世界を作り込むことのほうが、よっぽど重要なことだったのだ。

本来、「現実」なんていうのは、自由な想像の世界をより豊かなものにするための、素材集めのフィールドにすぎないのだ。

現実世界で体験したこと、知ったことをパーツとして、自分の中にある完全に自由な世界を、自分にとって素敵で魅力的なものに作り変えていく。

現実を変えるために想像があるのではなく、想像を豊かにするために現実がある、と考えるべきだったのだ。



そもそも、我々は本来、現実世界にいる時間よりも、想像の世界にいる時間のほうが長い。

入浴中や皿洗いをしているときや通勤中など、ぼーっとしているときに我々の意識は、目の前の皿というよりは、思考という想像の世界に向いている。

仕事中だってその仕事のもたらす未来を想像するし、文章を書いているときも、その文章が公開されたらどれだけの人が読んでくれるだろう、という未来を想像する。

寝る前だって明日のことを考えるし明日よりもっと先のことだって考える。それで不安になったり焦ったりもする。寝てしまえば夢だってみる。

「今この瞬間」を意識が離れるとき、我々の思考は想像の世界にいる。

この想像の世界が、自分にとって過ごしやすい世界かどうかというのは、現実の世界のすごしやすさ以上に重要だとはいえないだろうか。

そしてこの想像の世界は、本来、わざわざ制限の多い現実の世界に似せる必要なんてないのである。

もちろん地に足のついた現実的な思考も必要だ。しかし同時に、もっと自由で、ファンタジーに満ち満ちた想像だってできていい。

なんなら想像の世界が現実の世界を侵食したってかまわない。これは一部の妄想のプロはすでに実践している技術ではある。


しかし妄想に浸り現実から意識を逸らすのは、現実逃避だからよくないことだと、心のどこかで思っていた。

そうではなかったのだ。想像の世界こそがまず、一人ひとりの人間の中にだけ存在する唯一無二で不可侵の聖域であって、そこで展開される物語こそが自分にとって最も重要であったのだ。

現実で起きる出来事や体験や知識、感じる感情は、あくまで想像の世界を組み立てるための素材を提供する場であり、そこからどんなパーツを取り込むのかは、自分自身が完全に決めることができる。

現実世界で何が起ころうと、起きたことの意味を解釈するのは、想像の世界なのだ。

想像世界、あるいは内的な世界、精神世界など、いろんな言われ方をするが、そういう「自分だけの世界」が自分自身にとって魅力的で居心地のいい世界であるかどうかは、現実世界が快適かどうかよりもはるかに重要だ。

ドイツの強制収容所を生き抜いた精神科医VEフランクルの著作『夜と霧』でも、どんな過酷な現実からも、人間の内面は自由でいられるのだ、ということが綴られている。



これは、わたし自身が経験した物語だ。単純でごく短いのに、完成した詩のような趣きがあり、わたしは心をゆさぶられずにはいられない。

 この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。

「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」

彼女はこのとおりにわたしに言った。



ヴィクトール・E・フランクル
夜と霧 新版 みすず書房
(Kindle の位置No.1405-1411)


『ショーシャンクの空に』では、主人公のアンディが懲罰房に入れられたとき、あそこは地獄だよな、と語りかける仲間に対し、独房にいる間、頭の中でモーツァルトを聴き続けていたよ、と返すシーンがある。

これを現実逃避というのだろうか。ならば我々は誰しも、死ぬ直前には現実逃避をするしかない。

病気に伏し現実から得られるものが苦痛と恐怖だけになったとき、我々に残されるのは、自分が生涯をかけて作り上げてきた自分だけの内的世界だけだ。

どんなに沢山の友人、家族に囲まれて最期を迎えたとしても、朽ちていく肉体の苦痛という現実を味わうのは自分だけだ。

その現実をどのように受け入れるのかは、自分だけの内的世界が、その苦痛をどう解釈するかにかかっている。

そもそも死ぬ直前まで、我々の思考が明晰であり続けるとは限らない。たとえば認知症になったとき、我々は自分だけの世界を生きることになる。

同じ毎日を繰り返す世界なのか、夢の中のような世界なのか、体験したことのない自分にはわからないが、そうなったとき、その世界は自分にとって、過ごしやすい世界であってほしいと私は思う。

そのような想像を巡らせた時、自分だけの唯一の世界であり、もっとも自由なこの想像の世界をないがしろにし、現実世界の資産を増やしたりするゲームに没頭し、自分の感覚器官に快感を送り込むことに時間を費やすことは、果たして「幸福」に至る道程なのだろうか、と疑問に感じざるをえない。


現実を豊かにするために想像力を駆使するのではなく、想像の世界を豊かにするために、現実を使う。

こ発想の転換は、現実の捉え方を大きく変える可能性をはらんでいると思う。



最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の 息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。


ヴィクトール・E・フランクル
夜と霧 新版 みすず書房
(Kindle の位置No.1354-1355)



CM

弊社ではタスク管理ツールTaskChute Cloudを開発、提供しています。

自分は集中力がないので、noteを書いたり筋トレしたり家事をしたり読書したり、いろんな作業を分単位で切り替えながら仕事をしているのですが、そういう働き方ができるのはこのツールのおかげです。

このnoteもそんな感じですこしずつ数日かけて書き進めました。

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集中力のなさに定評のある方は試してみてください。

読みたい本がたくさんあります。