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やりたいことがわからないあなたへ

最近うっすらと、自分のやりたいことが何なのかがわかってきたような気がするのだ。

やりたいことが見つかったというよりは、「やっぱりこれか」という確信が強まってきている、という感じ。


やりたいことや好きなこと、あるいは使命感といったものは、見つけるというよりも、「これかもしれない」という実感を、少しずつ積み上げていくべきものなのかもしれない。


さて、そうだとして、それではどうすればその実感を、少しずつでも積み上げていくことができるのか───。


今回はそのことについて書いてみたい。


この文章は長いです。下記ルールをご参照の上、マイペースにお読みください。

・一気に全部読もうとしない
・飽きたら読むのを中断して別のことをする
・別の作業に飽きたらまた途中から読み進める



私は24時間、分単位で行動記録をとり、それを一日一回ふり返る「日次レビュー」を日課としていた。

しかし寝る時間と起きる時間がいつもバラバラなので、一日を24時間で区切るのがどうも苦手だった。

そこでレビューを24時間ではなく3時間ごとにしてみたら、これがけっこう気持ちよくはまった。3時間ごとにふり返ったほうが記憶がフレッシュなので、分析がしやすく発見も多かった。

しばらくこのやり方を続けていたある日にふと思った。レビューのスパンをもっと短くすれば、もっとフレッシュな発見があるのでは……?

1時間に一回?いや、「やっていることがひとつ終わるたびにすぐにレビュー」するのが最短か?

いや───

作業をしながら、リアルタイムに自分の動きをモニタリングして、改善すべき動きを発見したらすぐに反省して、動きを修正する。

これが最短最速で、いちばん取りこぼしの少ない「レビュー」ではないだろうか?

つまり「行動する/反省する/行動を修正する」を同時にやるということだ。PDCA の Do と Check と Action を、同時にやるということだ。


いやしかし……そもそもそんなことが本当に可能なのだろうか?気が散って作業がはかどらないのではないだろうか?


なんだかとても奇妙なことをやろうとしている気がしつつも、とりあえずやってみたところ、これは特別でも何でもないとすぐにわかった。きっと誰でもやったことがある。


これは、スポーツだ。



ここから先の文章は、馴染みのあるスポーツを想像しながら読んでいただきたい。スポーツが難しければ好きな対戦ゲームでもいい。


試合中、あなたは敵の動きをリアルタイムに観察し、対処していく。得意な攻撃が通用せず、苦手な戦術で戦わざるをえないこともあるだろう。

自分の動きだけに集中しているわけにもいかない。敵の動きはもちろん、仲間の動きにも配慮し、さらに自分のフィールド上の立ち位置、スタミナの残量、試合の残り時間などあらゆる情報を元に、即座に戦略を練って行動する。

これはつまり、行動と観察を同時に瞬時に行っているわけだが、この状態を「雑念いっぱいで気が散っている」とはいわないだろう。むしろ「フロー」や「ゾーン」と言われるような、質の高い集中状態だといえる。


作業をしながら、リアルタイムに自分の動きをモニタリングして、改善すべき動きを発見したらすぐに反省して、動きを修正する。


つまりこれを、日常の中でも行えばいいのである。



といっても、試合さながらに高い集中力を発揮しなければならないというわけではない。作業している自分の動きや姿勢、心の動きなどを眺める、もうひとりの自分を置いてみるといった程度のことだ。

たとえば、文章を書いているときの自分をモニタリングしてみる。スポーツの試合なら、自分だけでなく敵や仲間の動きも観察しなければならない。それに比べたら今回の観察対象は自分だけだし、動きもゆっくりなので、そんなに難しくはないはずだ。


さてモニタリングをしていると、文章をタイピングしている手がふいに止まる瞬間があることを発見した。いつもならここで無意識に水を飲んだり、スマホで漫画を読み始めたりするのだが、今回は「手が止まった原因」をリアルタイムに分析してみたところ


A.書きたいことはなんとなく頭の中にあるのだが、うまく言葉に落とし込めずに、手が止まる

B.「こんなことを書いたら、〇〇さんが怒るんじゃないだろうか」という思考がよぎり、手が止まる


など、「手が止まる」原因はいくつかある、ということがわかった。

さて問題はBである。Bで手が止まり、スマホに逃げることでたしかに気分はリセットされるかもしれないが、書こうとしていた内容も忘れるだろう。そしてなぜここで手が止まってしまったのか、その葛藤の理由も忘れてしまう。

誰かに忖度して、書きたいことを書けていない自分に気づけないまま、「なぜか最近、いい文章が書けない」と悩み続けることになる。

この心のゆらぎは、あまりに一瞬で記憶に残らない。だから日次レビューをしたり、日記を書いたりすることでこの葛藤の存在に気づくのは難しい。リアルタイムに自分の心の動きをモニタリングしていたからこそ、拾い上げることができたのだ。



リアルタイムモニタリングで発見できるのは、集中力が途切れる瞬間や心の葛藤だけではない。逆に集中力が高まる瞬間にも気づくことができる。

フローとかゾーンとかいわれるような精神状態は特別な人にしか体験できないものだと思っていたが、自分を丁寧に観察していると、わずかな時間ではあるが今、たしかに深く没頭していたな、という発見がある。

きらいでやりたくないと感じていた仕事をしている間にも、没頭している瞬間はある。「きらい/苦手/集中できない」という印象で覆い隠された時間の中に、瞬間的にでも興味をもち、仕事に没頭している自分がちゃんと存在していることがわかる。



個人的にいちばん興味を引かれたのは、自分が今まさに書いている文章に、自分で感動していることがけっこうある、という発見だった。

私は書き終わった文章を読み返すことが少なく、自分の文章にはあまり興味がないのだと思っていた。そんな自分が、人に見せる前の文章をおもしろいと思いながら書いているという発見に、少なからず驚いた。


自分の行動と心の動きを観察していると、こういう細かな発見が積み重なっていく。記憶には残らないようなほんのわずかな時間だけど、たしかに没頭し、感動している自分と、一日の中で何度も出会う。

そしてそのたびに、「ああ、自分にとって文章を書くことは、やっぱり特別なことなんだな」という、小さな実感が積み重なっていくのだ。


でも思い起こしてみれば、小さい頃から悩みがあればコピー用紙にみっちりと細かい文字を書き、Twitterにもどっぷりハマり、本まで書かせてもらって、自分にとって文章を書くことが特別だなんてことはわりと自明なことなのに、どうして今まで、その特別さを認められなかったのだろうか。



それは「もっとあの人のように書きたいのに書けない」という劣等感のせいだった。

「もっとたくさん文章を生産しなくてはいけないのに書けていない」という、自分で作ったノルマのせいだった。

「私の頭の中の理想の成果」をあげてくれない才能を、自分の才能として認められなかった。

結果にしか興味を持てずにいた。書いた文章が面白いかどうかでなく、面白いと思ってもらえるかどうか。書いた本が売れるかどうか。あの人よりも売れるかどうか。評価されないものに価値はないと思っていた。勝てない勝負に意味はないと思っていたし、勝てない才能を好きになってもしょうがないと思っていた。


でも書いているときの自分をよくみていると、どうしたって書きながら感動している自分を発見してしまう。おもしろい、こんな表現を思いつく自分は天才かもしれない、とはしゃぐ自分を、どうしたって見つけてしまうのだ。

人からの評価だとか価値だとか関係なく、一人で書いて一人で読んで、一人で喜んじゃってる自分を一日に何度も発見してしまったら、こいつは文章書くのが好きなんだなぁと、認めるしかないのである。



やりたいことが見つからないのは、時間が足りないからだとずっと思っていた。ゆっくりと「自分さがし」すれば、誰だって本当にやりたいことを見つけられるんじゃないかと思っていた。

しかし20年以上、たっぷりと時間を使って「自分は何をしたいのか」を考え続けてきたけど、結局そんなのは見つからなかった。

それから自分は、「たくさん考えても見つからないのは、経験が足りないからだ」と考えるようになった。

もっと沢山の人に会って、色んな話を聴いて、いろんな場所に足を運び、沢山の本を読めば、いつか自分の居場所や役割が見えてくるはずだと思っていた。

しかし勉強して東京の大学で講義を受けて、心理学や哲学の本を読んで、歌舞伎町の飲み屋や吉祥寺のダーツバーで働き、酔った大人の話を聴いて、ちょっとした挫折も経験し、自分でも本を書いて、友人と会社を経営してみたり、そこそこ色々な経験をした気がするけど、それでもやっぱり「自分には特別なものがなにもない」という感覚が拭えなかった。


過去とか未来とかばっかり、見ていたからなのかもしれない。



必要なのは、過去を分析して自分を知ることでもなければ、未来に大きな理想を置いて努力をすることでもなかった。

必要なのは証拠集めだった。自分の心が細かく動いていることに気づくことだった。一瞬すぎて記憶には残らないような感動とか高揚を、たしかに自分は毎日経験しているのだという発見を、日々積み重ねることだったのだ。


自分にとって何が特別かを教えてくれるのは、試合に勝って嬉しかった思い出とか、テストで良い点をとって褒めてもらえた思い出とか、そういう大きめにパッケージングされたエピソードではない。

「あの時期はほんと、しんどかったなぁ……」としか思い出せないような記憶の中に埋もれている、ひとときの興奮や高揚なのだ。




「まさに今、自分の心が動いている」という発見が、自分にとって何が特別なのかを教えてくれる。


そしてその積み重ねが、自分にとって特別であるという確信感を、自分にもたらしてくれる。



CM

24時間分単位の記録は、このツールで録っています。



最近の使い方としては、分析するための記録を残すためというよりも、自分を観察しながら丁寧に時間を過ごせているかを確認するために、ひとつひとつの行動記録を残している、という感じです。


読みたい本がたくさんあります。