フォトグラファーの定義・その変遷

はじめに

自分自身まだ写真を始めて5年しか経っておらず、写真を撮る人としてそれらを語るにはおこがましくもありますが、ところどころ思う事がありますので、現段階での記しとします。

写真を生業としていますので、世間一般で言うところのプロフェッショナルとなります。

Professional・・・(知的)職業の,職業上の,専門職にふさわしい,(知的)職業に従事する,専門職の,専門家としての,専門的な,プロ(級)の,くろうとの,本職の
weblio英和和英辞書参照

これらの意味が包括されている中で、日本的な意味合いでは「専門職かつ玄人」であるかと思われます。専門職であることとその道で玄人である事は同義ではありません。

職業としての危機

近頃、カメラやスマートフォン、コンピューターグラフィックスが一般に普及されていく中で職業としてのフォトグラファーは今後必要とされるのか?といった議題をよく目にします。

この議題に対して着目しなければならないのが、カメラが普及する以前のフォトグラファーの定義であるかと思われます。

カメラが普及する以前、職業としてのフォトグラファーである定義は「写真を撮れる人」であったかと思われます。誰でも簡単に写真を撮れる今日と違うのは、写真を撮るために技術、知識が敷居となっていたことです。

誰にでも使いこなせないものであったからこその職業が、カメラが誰にでも買える時代、情報が調べれば手にできる環境のなかでは素人と玄人の境界線が大きく隔たれたものではなくなってきます。

では、そんな今日の状況の中でのフォトグラファーとは一体なにをもって生業となり定義されるのでしょうか?

最も確実に言えることはフォトグラファー像が「写真を撮れる人」から「良い写真を撮れる人」への推移しつつある事です。
それは今までのアカデミック一辺からの脱却をも表しております。

権威的な肩書き、それらしく聞こえる説明によって「良いとされる写真」から、見る人にとってより知覚的、感覚的にに「良い」と思ってもらえることがより肝要となってきています。(少し矛盾はしますが、鑑賞において作品とその作者との関係性、その人の背景等は大事な要素であると思っています)

従来の「写真を撮れる人」に職業人であるか否かの分岐を置くとすると、冒頭に記した通りの職業的な危機となりますが、カメラを扱える人の母数が増えることは写真という文化全体としてみればより健全な方向へと進んでいると言えるはずです。

また母数が増えることの危機については、他のいくつかの業種がすでに同じ境遇下で残っていることからフォトグラファーという職業が無くなるということに直結しないと思います。

例をあげると、大多数の人が字を書けますが、職業として書道の道に進む事はなく、また書道家の一筆はシッターを押すのと同等に一見シンプルでありながら簡単には真似することの出来ない修練されたものが見えるかと思います。

文章についても誰もが文章を作ることができますが、作家のようにその一文からだれかを感動させることは容易ではありません。

ある程度極論にはなりますが、上記のことがらから考えると写真はやっとスタート地点にたどり着いたと言えないでしょうか?

カメラを手にしようと、情報が十分にあろうとそこにはどれだけ写真に対して思索を重ね、シャッターを切り、関心を寄せづけたという事実が伴わないと意味をなさないように思われます。
自転車があって、乗り方を十分に教えてもらってもすぐには乗れないように。

写真である意味についても書こうと思いましたが、眠たいのでここで一旦終わりとします。。



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