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アトス自治修道士共和国巡礼記

アトス自治修道士共和国(通称アトス山)はギリシャ東北部のエーゲ海沿いに位置する、人口約2,000人のアトス山を囲んだ半島の一地域である。ギリシャ政府から治外法権が認められているギリシャ正教の聖地および他の東方正教の聖地の一つであり、紀元後10-14世紀に20の修道院が建てられ、最長で1000年以上にわたり同じ場所で祈りが捧げられている。

これは僕が2019年6月19日から22日にかけてアトス山を訪れた記録であり、写真のパーミッションは異世界かつ現実世界であるアトス山への入山許可証であり、一般の旅行者は日程調整を主理由としたパーミッション取得の困難性からほぼ入らない事、3泊4日と短い期間であるが時を超え新たな問いをもらった貴重な体験をしたため是非このような地があるのを皆さんにも知って欲しい事からnoteに記載することとした。ただ、99%が自分のために書いた行動記録用メモであることを断っておく。

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0日目

6月8日午前11時。ギリシャ第二の都市テッサロニキのThe holy mount of Athos のオフィスでアトス山の入山申請を行うために向かった。
そもそもアトスは、ギリシャ以外の外国人は正教徒であっても一日に最大10名の入国許可しかおりない。そして正教徒はこの地の巡礼を夢見て入山申請を事前に済ませている。したがって一般旅行者が思いつきで行けるような場所ではないのだ。(一般旅行者はアトスの地から最大500mまで船で近づけるのみだ。)あくまでもダメ元で向かう。
すると、偶然キャンセルが出たとのことで11日後の6月19日に入れることが決まった。ちなみにその次の空き日程は3ヶ月後だった。

出発前に、村上春樹が1988年9月にアトス山を訪れた事をまとめた本「雨天炎天」を読み、南端に位置する「世界の末端に接近した場所」と評されたカフソカリヴィアだけは必ず訪れることを決める。

1日目前半

6時起床。今日も相変わらず快晴。この時期の地中海は晴天続き、日中気温も18-30°程度で本当に過ごし易い。市バスで郊外のバスターミナルへ行き、2時間ほど待ったのちに8時45分テッサロニキからバスでアトスへと続く港町ウラノポリに向かう。ウラノポリの船着き場横のオフィスで30€払って入山許可証をもらう。巡礼先のアトス山の修道院では宿泊と食事は無料であり、実質この30€が3日の宿泊と食事代に当たると考える。入山許可は6月19日から6月22日までの3泊4日。

11時45分、ウラノポリから船でアトスの玄関口ダフニへ。女人禁制を保っているアトスに向かう船上には男性しかいない。ギリシャ正教徒の正装をしている人が乗客の半分を占める。長いヒゲを蓄えて髪を後方で結い、クロブークというバースデーケーキのような黒い帽子をかぶり、ラーソという黒いだぼっとした衣服を纏っている。残り半分は白人(殆どがギリシャ人)巡礼者である。彼らももまた3泊4日の入山許可証を手に握りしめている。
12時20分、ダフニに着きミニバスに乗りアトス共和国の首都カリエスへ。カリエスは首都とはいえもはや小さな村だ。バス停の周りに店らしきものが5-6店と、いくつかの修道院が徒歩圏にあるのみ。
13時半、カリエス到着と同時にミニバスを乗り換えカリエス発。この辺りから道がワイルドになり、高々8kmほどの道を車で1時間かけて進み14時半に本日の宿グラン・ラブラ修道院着。

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1日目後半、グラン・ラブラ修道院

963年創立のグラン・ラブラはアトス山に20とある修道院のうちもっとも古い修道院だ。
アルホンダリキ(受付)で、ルクミ(甘いグミ状の菓子)、ウーゾ(アブサンに似た薬膳酒。アニスの香り)、小さいカップのギリシャコーヒー、水を頂く。
10数名と一緒の乗合バスでここまで来たが、3つの部屋に分かれて案内され、僕はおそらく異教徒だからか、ただ一人別の部屋に案内された。電話で予約をしていたため案内もスムーズ。綺麗に畳まれたシーツが11個のベッドに置かれだ白くて広い部屋を独り占めできる事はなんとも贅沢である。しかも崖の上の部屋であり眺めもとても良い。

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水シャワーで全身を洗い、修道院の内外の散歩をし、それでも時間があっためぼんやりする。受付の宿泊帳簿を眺め、今日の宿泊者約50名は僕以外ギリシャ人である事を確認した。

18時、シマンドロという木を叩く修道士の合図でお祈りの始まり。修道院のど真ん中に位置する教会に、修道士約20名、巡礼者約50名が集う。まずは教会の手前の部屋でお祈り。天井は半球状になっており、壁と天井の至る所に聖母マリアとキリストを中心としたビザンチン時代のフレスコ画がかれている。柱の周りには1m四方のイコンの下に接吻用の30cm四方のイコンがあり、修道士と巡礼者は4つのイコンを周り十字を切り接吻をする。(カトリックとは順序が異なるので自分が行う時は注意しなければいけない)、その後部屋の周りにある簡易椅子に座り祈りを唱える。30分ほどすると奥の部屋が開き、正教徒は中心の部屋に移動。何名かの修道士が声だけの礼拝歌(ビザンチン聖歌)を歌い、2名の修道士がシャンシャンとした音を奏でながら乳香を振りまく。ギリシャ正教には聖歌の伴奏と彫像が禁止されているため、今まで見てきたカトリック寺院とはだいぶ趣を異にする。太陽は傾き、窓のステンドグラスから入る陽は徐々に柔らかくなり、照らす先は床から壁のフレスコ画に移っていく。
教会の入り口にいたクリストファーという修道士に日本語で話しかけられ、彼は65歳で47歳からアトスに住み始め、アトスに来るまでは長い事船乗りをしていた。「日本は色々訪れたよ。東京、川崎、横浜、神戸、長崎、室蘭…」室蘭は唐突だったが、この後も丁寧な英語とたまの日本語で、どこまで立ち入っていいなどのお作法を付きっ切りで教えてくれた。

19時、教会横の鐘の音を合図にして、教会入り口と反対側の建物で夕食。長方形の建物で一番大きい広間は十字架の形になっている。馬蹄形のテーブルが両側面に並び、10名1テーブルで囲む。一番奥にひとりの修道士が立ち読誦している間わずか10-15分の間に夕食を食べる。壁一面に描かれたフレスコ画と1000年も使われている大理石のテーブルは雰囲気がある。
メニューは、パン、水、ぶどう酒、オレンジに加えて、トマト味のパスタ、レタスときゅうりと玉ねぎのサラダ、フェタチーズ、ゆで卵と意外と充実。調味料はレモン、塩、オリーブオイル、バルサミコ酢。パスタはマカロニのような形でもっちりしてて、味は想像通り。サラダはフェタチーズとレモンの塩気で食べると悪くない。ワインはロゼのような色のドライワイン。10分程度で一気に食べて、食べ終わった途端にベルが鳴って夕食終了。そそくさと立ち上がりぞろぞろと教会へ出る。

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19時15分、教会のメインの部屋で不朽体が出されたタイミングで、入り口の部屋とメインの部屋をつなぐ十字架の刺繍が描かれたカーテンは閉められ中の様子が見えなくなる。この時点で僕以外の皆が中に入っていった。そして20時まで祈りは続いた。

明日からが山の近くを徒歩で移動するため、本番と言える。ハードでタフな登山道と聞いて、絆創膏、レインコート、バックパックカバー、行動食、塩分補給用のレモン、フルーツナイフを買い揃え、万が一に備え塩タブレット、鏡、コンパス、ホイッスル、ロキソニン、毒抜き、消毒剤を持って来ている。結果として、そんな準備も心構えも一瞬で砕け散るほど、翌日はワイルドでハードでタフな旅となった。

2日目前半、プロドロム小修道院

朝2時。グラン・ラブラ修道院のアルホンダリキ前の硬い木の椅子の上にいる。満月が空に浮かび雲影を映し木星が燦々と輝いている。しかし体は痒く耳元にはずっと蚊が飛んでいる。夕方から気になっていたが、ベッドには100匹はくだらない南京虫がおり、バックパックを置いた瞬間に南京虫まみれになっている。そしてあいにく痒み止めや虫除けスプレーは持っていない。修道院にはそもそもホテルのような快適さを求めるものではないが、ましてや異教徒で本来お呼びでない僕などはいくら不快でも今からリクエストしたりクレームをいれる事は出来ないししない。したがって部屋よりマシなアルホンダリキ前でほぼ野宿をしている。寝ようと粘ったが、寝れらず仕方なく記している。
3時、起床の鐘が鳴り、3時半にはシマンドロが鳴る。修道士は教会へと向かう。巡礼者は意外とゆっくりしているようでほとんど動かず。僕も眠気で動けず木の椅子で待機してたら夜が明ける。

6時45分、一日一本のカリエス行き乗合バスが出る。それに巡礼者が20数名と修道士10名ほど乗車、一気にグランラブラ修道院から人が減る。

7時半、朝食。教会での祈りを終える鐘が鳴り、食堂へ移動。半分ほどがカリエスに移動したためがらんとしている。今日のメインディッシュは1cmの厚さに切ったジャガイモとズッキーニをバジルで茹でたもの。残りのメニューはパスタ以外昨日と同じ。食堂に描かれたフレスコ画と正装をした人たちの食事姿に囲まれたこの食堂は、1000年の時をさも簡単に越えてくる。この感覚は凄みがある。もちろんパスタにナイフにフォークにアルミ食器になど細かい違いはあれど、時を超えた荘厳さを感じるものだ。

8時半、プロドロム小修道院に向け徒歩出発、9時過ぎ到着。案内してくれたのは13歳からアトスに住み始めている15歳の若手修道士。到着して、ルクミ、ウゾー、コーヒーをもらう。

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ここはルーマニアの修道院で、教会自体は1863年に再建されているが、入って右側のフレスコ画は昔から存在しスラブ語で書かれており、左側の文字と異なる事で時代が違うことを教えてくれた。あとは変わらずフレスコ画と聖母マリアがキリストを抱えているシーン。ドイツでよく見た教会のイエスと違って受難の絵はない。

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2日目後半、カフソカリヴィア小修道院

9時半、アトス最南端のカフソカリヴィア小修道院に向け徒歩出発。結論としては道を間違えて2時間ほどタイムロスをして、かつ気力が尽きたため昼過ぎに寄る経由地のはずが目的地になってしまった。

まず9時半から10時半まで、プロドロム小修道院を出てすぐの獣道をとにかく前進したのだ。なぜならばプロドロムから西に行く道らしきものがあり、その道らしきものは石や木が若干人工的に並べられて、人間が歩いた形跡ありと判断したからだ。しかし、これは大間違えだった。まず、1分ほど歩いたらもうしゃがまないと前に進めない。そこからずっと中腰で進む。10秒に1回は木に当たり、30秒に1回はトゲが頭や足や服に刺さる。毛虫が頭に肩にまとわりつく。長袖に着替え帽子をかぶるがよく引っかかり帽子が取れる。足を滑らせてカメラのレンズが傷つく。これは正気の沙汰じゃないが、(これがハードでタフな道か)と思い歩き続ける。1分に1回ほど左右どちらか分からなくなる箇所があるが、無理やり太陽の方角を頼りに登っていった。
一時間後、ボロボロの家に到着。どうやらここは隔世の修道士の家であり、ここまでの足跡は彼の足跡で、その先に何もないことを確認し、絶望して引き返した。途中、(もし同行で誰かいたら絶対に引き返そうと言われるほどのハードさだから、一人で来てよかった)なんて考えていたが大間違いだった。引き返すにもたいした道がないから太陽の方角を頼りに同じだけの時間をかけて引き返す。行ったことがないが樹海はこんな感じなのか、とふと思った。かなりうんざりしてて足取りも重くなっており、あやうく遭難するところだった。

11時半、プロドロム小修道院に戻り、先ほどの修道士に正しい経路を聞き徒歩再出発。迂闊なことにプロドロム小修道院を出た真横に小道があるのを見落としていた(整備されていたため修道士用のプライベートな通路に見えた)。そこがあまりに綺麗な道である為、先ほどの道との落差に唖然としながらも進んでいくとすぐにワイルドな道となった。

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切り立った山を登っては深い谷を下り、一歩間違えればそのまま斜面を転げ落ちるような崖っぷちを何度もよじ登りよじ降り2時間が経ち、気力がほぼ無くなりうんざりしていた。その要因は、カフカソリヴィアに行く道でただ一人として人とすれ違わなかったことと、僕に仲間がいなかった事だ。小さいながら看板はあるもののギリシャ語で書かれ、この道が本当に合っているかどうか不安になる。事実として何回か道を間違えて、一回は不要に階段約500段を下り、すぐ引き返して一気に体力が削がれた。

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また、仲間がいれば愚痴はこぼすこともあるかもしれないが、辛い時に励ませるため頑張れる。それが終始孤独では、僕にこれ以上耐えうる気力は残っていなかった。ハードでタフな道だったが、アトス半島南部の切り立ったアトス山と海の壮大さには息を飲んだ。そして疲れた時にレモンを絞ってそのまま飲んだがこれが最高に体を回復させてくれた。その後レモンはレモン水として携行し辛い時に重宝する事となる。アトス山山頂の雲行きの悪さと山頂から吹き下ろす冷たい風に雨が降る前兆を感じ、急いで歩いた。

二時間半かけてカフソカリヴィア小修道院に14時に到着。ウーゾもルクミもコーヒーも出てこない。この場所はやわではないのだ。すでに次の目的地ーアギア・アンナまでー3時間半かけていく気力を失っていたので予定を変更しカフソカリヴィア小修道院で宿泊することとした。予約をしていないが泊まりたい旨を伝えたらすぐに部屋へと案内してくれた。

この街には電気が通っておらず、人々はソーラーパネルで発電をしている。辺境の地で20人程度が自給自足と祈りだけをして暮らす。故にとても静かである。この小修道院も修道士一人で切り盛りしている。見た限り電話もパソコンもなさそうで、宿泊予約ができなさそうだ。

14時半、修道士がご飯を作ってくれたので頂く。食堂の荘厳さに驚かされたグラン・ラブラとは趣を異にして、実家の台所といった設備と広さの場所に案内される。そこでフェタチーズをふんだんに乗せたトマトソーススパゲッティ、パン、フェタチーズ、お米を葉っぱで巻いたもの(名前知らず)、チェリーが振舞われた。村上春樹に「カフソカリヴィアの食は粗雑。黴の生えた固いパンに人生で一番塩辛いフェタチーズ。そんなものを美味しそうに食べる猫が世界にいるのか(いや、アトスにいた。世界は広いのだ)」と言わせたパンとフェタチーズであるが、パンに黴は生えていなかったもののフェタチーズは塩辛かった。たしかに最南端まで来ると粗食である。

ダフニ方面のボートは翌日の9時に港に行けば30分くらい待って乗れるとの事で、カフソカリヴィアまで来て満足をし、かつ気力を削がれた僕は迷わず翌日はボートで行くことを決意し猫と空と山を眺めてぼんやり過ごす。
お祈りや夕食の鐘もなく、正教徒の巡礼者は勝手にお祈りをし夕食をを振舞われていた。

この地に住む彼らは祈りを中心に、自給自足の生活をしている。ルールが違いすぎて、世界の末端に近づいた気がして感動していた。僕も空腹感と肩と太ももの筋肉痛と喉の痛みと熱と眠気と全身の痒さとサントリーニ島で壊滅的に下手くそな飛込みをし内太ももに作った痣と獣道トレイル中で指に刺さったトゲと汗が染み出して綺麗とは程遠くなったバックパックに止まっては動くハエの群れが気になったが、静かな辺境の異世界を前にしては大した問題ではなかった。

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夕暮れ時(夏のヨーロッパの日は長い。この時期は約20時半だ)。部屋には電気がなく、南向きの窓から入る光で大体の時間を把握する。21時過ぎに空と海の色が同じ青色になり、一気に暗くなる。夜はとても静かで馬の鳴き声が聞こえる程度で、湿度も少なくとても快適である。グラン・ラブラと違い南京虫もいない。ギリシャ人巡礼者3人と一緒に8人部屋で就寝。3人のうち2人はアトス巡礼3度目、1人は僕と同じ1度目。

3日目前半、シモノペトラ修道院へ

朝6時半起床、ぼんやり瞑想して時間を過ごす。静かな朝。だんだん明るくなってくる。
8時、朝食に呼ばれるがキッチンではなく、廊下にコーヒーパウダーと自家製パンケーキのようなものが置かれて、コーヒーは自分でお湯を沸かしパンケーキは好きな分量カットするタイプ、と相変わらずワイルドだ。
8時30分、宿を出て30分ほど階段を下り港へ。10時過ぎに船が来て、10時半にシモノペトラ港着。そこから階段をひたすら30分登り、11時、シモノペトラ修道院着。

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下から見たら修道院が遠くに見える。ほぼ垂直の崖を階段に沿って登る。

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3日目後半、シモノペトラ修道院

ここは1257年創立、その後3度の火災による焼失を経て、現在のものは1891年に再建。アトス南西部の急な崖の上に作られた7階建ての修道院である。アトスでグラン・ラブラ修道院と並んで最大級の修道院だ。アルホンダリキで水とウーゾとルクミを頂く。ギリシャコーヒーはなし。

巡礼者界隈では一番人気で宿泊困難と言われるこの修道院は事前にしていたメールにおいては満員で断られていたのだが、当日ダメ元で行ったらスムーズに入ることができた。横に座ったギリシャ人巡礼者は4ヶ月前にファックスで予約をしたと言っていた。待っている間に、一日3-40名で直近3ヶ月分約3,000人の宿泊者名簿に目を通したが、居住地は約85%がギリシャ、13%がルーマニアやロシアをはじめとしたギリシャ以外の東方正教圏、2%がドイツ、イタリア、オーストラリア、レバノン、USA、南アで、東アジアは一人も確認できなかった。
居住地がUSAの親子の巡礼者と話をしたが、彼らも出身はルーマニアでUS在住との事。

この修道院が一番人気である理由は、最もリッチな修道院だからだ。フランスにも3つの修道院を持ち、大量の寄付寄進を得ている。そのためか、修道院も巡礼者用宿泊施設も新しく清潔。宿泊施設は清潔な枕カバー、シーツ、タオル、ブランケット完備。枕元にはコンセント有。壁には絵画とイコン、天井にはシャングリラ。ドミトリーとはいえ共同のシャワーもトイレもバルコニーも綺麗で、部屋の外にはキンキンに冷えた水道。しかも三方を山、一方を修道院(その奥が海)に囲まれたロケーション。バルコニーには椅子があり、サンセットも眺められる。

異教徒がここに居るのが物珍しいのかよく話しかけられ、ギリシャ人の巡礼者3人、ルーマニア人巡礼者2人、フランス人修道士ギリシャ人修道士と雑談してたら15時。この修道院にはお土産コーナーがあり、何とアトスで作られたワインも売っているのでロゼを1本購入し本を読み飲みながらぼんやり過ごす。

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17時、シマンドロの音と共にお祈り開始。3部屋あるうちの一番手前の部屋で異教徒の僕は待機し1時間祈りを捧げる。途中、修道士が振る乳香の香りとシャンシャンという音が部屋一面に広がる。ぎりぎり19世紀に書かれた絵画は、1000年前のグラン・ラブラ修道院のフレスコ画を見た僕にとってはすごく綺麗に新しく見えた。
18時、横の建物に移り夕食。長方形で3つの長テーブルの両サイドに計90名程度収容できる部屋で今日は半分強の充足率。天井と壁一面に絵画が描かれ、雰囲気は新しいながらも相変わらず荘厳である。メインディッシュはトマトとバジル味のご飯をズッキーニに詰めたグリル2つ。他にはパン、フェタチーズ、レタスとネギのサラダ、ゆで卵、デザートの熟れた梅2つ。ワインはなし。全員黙って10分程度で食事を摂り、ベルの音が鳴り次第手を止め速やかにお祈り部屋に移動し約50分程度お祈り(詳細は1日目参照)。2番目の部屋で僕は待機し、僕の入れない3番目の部屋で不朽体が出されて十字架のカーテンで遮蔽される。
19時から自由時間。ルーマニア人巡礼者と雑談。バルコニーで夕日と夕焼けを眺める。

4日目、ダフニそしてアトスの外へ

朝6時起床、シャワーを浴びバルコニーで過ごす。8時、ひとりの修道士がお墓とチャペルと納骨場に連れて行ってくれた。お墓は土葬、位の高い人がそこで眠り、7つのシンプルなお墓があった。納骨場は1973年以降の修道士の頭蓋骨が所狭しと並べられていた。その修道士は父親もこの場所に並べられているんだ、といい、父親の頭蓋骨を持ち上げ接吻し、心臓手術の際に使ったシンプルな針金と木版も取ってあるのだ、と見せてくれた。頭蓋骨には名前と没年月日が書かれている。
そしてお墓とチャペルと納骨場は最も海に近くて見晴らしの良い場所に位置していた。
その修道士はとても良くしてくれて、朝食が本当は10時から出るのだけど、バスの時間とかぶるので待てないと言ったら特別に朝食を出してくれた。メニューは昨晩と同じ。

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食べ終えてからもしばし雑談。出る間際にはシャンティのCDまでプレゼントしてくれた。彼と雑談していたらバスの時間になる。

10時、ミニバスでダフニへ向かい10時半到着。乗車時にお金を払いそびれたので降車時に修道士にその旨を伝えたら、祈ってくれればお金はいらない、とキザなことを言われていい思い出でアトスを締めくくれた。
11時45分にくる船の待ち時間で、この地の出来事を振り返る。あれよこれよで船が来て、甲板でぼんやりしてたらウラノポリに着いた。港に着く直前にアトスは別の山の稜線に隠れて見えなくなった。確かに稜線の奥には異世界が存在していた。記憶に写真に文章だってあるのだ。

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すぐにテッサロニキ行きのバスのチケットを買い、タベルネでキンキンに冷えたドラフトビールを飲みほし、もう一杯飲みアトスの旅を終えたことを実感している。アトスを訪れた事で次の目的が明確に定まったので、早速今晩の航空券を購入。バスの中で文字に落としているうちに時間は過ぎ15時半に大都市テッサロニキ到着。

この世界にはWifiも、女性も、犬も、広告も、タベルネ(レストラン)も、あたかも当然に存在し街中に溢れている。

お気に入りのレストランに寄って最高の地中海料理を食べてから、空港へ向かおう。

最後に

ここまで殆ど事象をつらつら記載してきたが、最後に心象を交えた印象的な話として、3日目に泊まったシモノペトラ修道院で出会った27歳のフランス人修道士との会話を紹介しよう。彼は4年前にフランスはリヨンからこの地に移り住んだのだが、彼の世代は昔よりリッチになっているはずなのに同世代の友人はストレスと時間に追われ幸福ではない矛盾に違和感を感じた事と、田舎に住む94歳の祖母にスマホを渡そうとした際にシンプルな生活がいいから断られた原体験を持ち、捨てるものももちろんあったが幸せに暮らすために、この辺境の地を自ら選んだのだ。

彼は「アトスに移り住んだことは、自分が決めた事だから間違いないと確信している。事実、アトスのシンプルなライフスタイルは1000年変わっていないしこれからも変わらないから、ずっと幸せでいられると思う。君は正教徒ではないのにここに来たと言うことは、きっとライフスタイルに悩んでいるのだろう。だから僕は君にここに来た時の話をしたのだ。テーブルの上に全てを置かなくても決断できる。テーブルの上に全てを置こうとするとすぐ年老いてしまう。人生は短いだろう?」という問いをくれた。

僕は好奇心でこのアトスに来ただけなのだけど、彼を始めアトスにいる修道士の目、表情、言葉、立ち振る舞いから、皆が自己決定性に基づき、確信を持ってこの時代を生きている事がひしひしと伝わってきて、その姿は黒ずくめの衣装にもかかわらず、僕にはとても眩しかった。

さて、私は、あなたは、何に確信を持って生きますか?

それでは。

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