見出し画像

期限のない早足の旅と文章考

 期限を決めない旅をしばらくしてきた。かといって沈没もせずに、朝から晩まで四六時中動き続けている。次の予定などあるわけではないが、次にしたいことをどんどん前倒して旅をしている。旅人と出会う度に、なんでそんなに早足の旅を続けるのですか?と訊かれる。

 相対的に見て早足の旅をしていることは実感があるが、何かを見逃した、深く理解せずに過ごした、という感覚は僕にはあまりない。

 いい機会なので今年の旅を総括するとともに、旅と文章のスタイルについて言語化してみた。読むの面倒な人は文末写真を見て下さい。

2019年の旅、10月末時点進捗

 今年は、世界の行きたいところを好き放題回っている。Google Mapの移動距離を見たら20万キロを超えた。今年だけで、地球と月の直線距離(38万キロ)の半分を移動してしまった算段になる。我ながらよく移動したと思うし、一方で、好き放題移動して何十回と飛行機に乗ってもまだ月までの距離に半分程度しか届いていないことから改めて月は遠いとも思う。でも事実として、すでに半分も来れた事からすると果てしなく遠いわけではない。同じ距離を動けば月に届くし、さらに三倍の距離を動けば往復すらできる。月の往復が現実感を帯びてきた。距離的な意味だけど。

 1月。オーストリア・ウィーンで大学のサークルの後輩と偶然会ってご飯をする所から始まり、ワインと芸術とサウナのある中欧を満喫した。誰が見ているわけではない、むしろ誰もいないアルプスの少女ハイジの舞台の街・スイスのマイエンフェルトで一人登山をして凍えそうになっては、ミュンヘンの世界最大のサウナで暖をとって時間差はあるが平温を保った。スロバキアではテーブルをひっくり返した形のシンプルなランドマークの城を見て若干の興ざめをするも、その奥のドナウ川を見ることでうっとりした気持ちを保っていた。二重内陸国のリヒテンシュタインの首都ファドゥーツでは3€払ってスタンプを押してもらった。

 4月。パリで花見をし、モロッコでサハラ砂漠マラソンに参加。サハラ砂漠を230km歩くという、かつてない挑戦とそれを成功の手中に収めた。成功のためには、現場でしか感じられないあの酔狂がなければならなかったし、酔狂があったからこそたった7日間の出来事なのに人生のハイライトになるくらい印象深い思い出になった。パリへ飛び、夜行バスで向かった弾丸スペインではバスク地方で食い倒れ、その翌日にパリへ戻ったら偶然ノートルダムの火災を目撃。たった四日の日本滞在では高尾山でうどんを打ちチャコリ(バスク地方の発泡ワイン)を飲み温泉に入りサハラの疲れをいやした。休む間もなく七年来の友人と二度目のアフリカ飛行。まずはエチオピアの色とりどりの秘境の地を訪れた。

 5月。令和の最初はソマリアの一部であり未承認国家のソマリランドからスタートした。砂漠の中で遭難しかけてなんとかジブチに抜けて灼熱を感じ、マラウイ湖に浮かぶ満月に魅せられ、モザンビーク島のヴァスコ・ダ・ガマ像では大航海時代に思いをきたし、改名直後のエスワティニではスタンプも紙幣も改名されていないことを発見し、ダーバンではラグビーの南アフリカ戦を見て興奮し、ドラゲンスバーグ山脈を登りサニ=パスからレソト王国に入りヨハネスブルグへ到着し、イタリア・ボローニャへ飛び食い倒れ。ルパンのカリオストロの城の舞台・サンマリノの地を踏破し、そこから水の都ベネチアでは朝市と美術館を、トリエステではフリウリ州の独特のパスタを堪能する。

 6月。バルカン半島の旧ユーゴ圏を全部まわる。海沿いの噂に違わぬ尊いドブロブニクやコトルの山からの景色を目に焼き付け、ボスニアヘルツェゴビナでは第一次世界大戦やサラエボ事件の現場の博物館を回り過去の負の歴史と人種問題について考え、ギリシャに抜けてメテオラを見た後に友人と合流しサントリーニとミコノスの島めぐり食い倒れ飲み倒れツアーを催行し、激しく遊び死ぬほど散財する一週間を過ごす。再度一人になり聖地・アトス山を回り、その勢いでスペインはサンディアゴ・デ・コンポステラの100kmの道を走ってからポルトガルへ南下。途中では巨岩の織り成す不思議なモンサントの街に立ち寄りつつ無事にリスボンに到着し、再度アフリカへ。

 7月。アフリカで再度合流した友人とキリマンジャロを登り、アフリカ最高地点(5,895m)を踏破したことで、10年間追い続けてきたアフリカの好奇心に対して満足の勲章を与えることができ、アフリカ旅はいったんの終止符を打つ。そのままバンコク経由で東京へ行き、友人と和食を食べたり2つのイベントでは料理人となりギリシャ料理とアフリカ料理をふるまいながら、旅のことを共有させてもらった。そしてサハラ砂漠マラソンメンバーと鹿児島で会い、梅雨明けの五島列島を含む九州巡り。梅雨が明けた瞬間に東京に2日だけ戻り「ローストホース」「つくしのこ」で馬と日本酒をチャージし、長野へ帰省しウナギを食べ、その後は8月末まで恒例の逗子に移住をし、海沿いシェアハウス暮らしをしていた。

 8月。鎌倉で友人たちと夜通し語り合い、海岸ではさらに別の友人が合流し生シラス卵かけご飯とビールを食べる所から始まる。お盆には、台風を避けるようにフィリピンへ向かう。結果的に友人二人と落ち合い三人旅となる。一人がチケットを取り、その旨連絡したら一日足らずで他の二人が別々のチケットをとり、現地集合するこのやりとりがたまらない。その後二人と別れ、僕はカジノで大勝ちしたためその足でカリマンタン島(ブルネイ、マレーシア)を散策し、帰国。日本でイランとパキスタンのビザ発給を待っている間に、逗子の海の日最終日に気の置けない友人たちとBBQと花火で満喫した。去年に引き続きすみだ錦糸町河内音頭大盆踊りに参加したのもいい思い出だ。葉山の美しすぎる夕日も何度も見た。

 9月。シルクロード美術研究者の友人夫妻がインド北部ラダックにいるという理由でインドへ飛んだ。彼らと無事再会し、素敵な夜を過ごした。チベット仏教が根付いているしているラダックは素晴らしい地だった。インド人三人組とラダックツアーに行き大人四人ではしゃいだ。再度一人になりカシミール地方の紛争地・スリナガルの街へ繰り出して肌で緊張感を感じたのも束の間、すぐに飛行機でアムリトサルへ移動してシク教の聖地でまた別次元の祈りを感じる。陸路でパキスタンへ抜けて、自撮りの嵐の洗礼を受ける。イスラマバードからは友人と一緒に風光明媚な地を回った。ところで海外の旅先とも関わらず各地で友人が僕の旅先へわざわざ会いに来てくれる。本当にありがたい事であり恵まれている。風の谷は確かにこの地上に存在していた。フンザで別れて再度一人カラコルムハイウェイを抜けて中国へ。新疆ウイグル自治区の中国共産党の看板とカラクリ湖の対比に見とれつつ中国国旗がわんさか溢れるカシュガルに抜け、出国時に公安に苦しめられながらも中央アジア突入。キルギス、タジキスタンでは温泉につかりつつも一生分の山に関する絶景を見て、ウズベキスタンに入ってからは自然の叡智ではなく人類の叡智に見どころがまた変わっていき、サマルカンドブルーにうっとりさせられていた。そんな余韻に浸っていたらサウジ観光ビザ解禁のニュースを知り、即フライト確保しタシケントへ移動。

 10月。UAEで一番人気のインド料理屋のおもてなしに感動したのも束の間、サウジはジェッダへ飛ぶ。サウジ王国の日本人初の旅行者となったみたいで、サウジの手厚い「歓迎」を受けたことや、僕が女性であればハラスメントと捉えられるような出来事や世界遺産の地の観光記まとめは、今までのnoteと異なり、自分向けではなく次にサウジに行く人向けに、若干方向性を変えて書いた。結果、そのnoteが主にtwitter経由でプチバズり。(そこから再度マイナーでどうでもよくて自分が読みたい内容の記事にトーンを戻す。バズらないが心地良い。)バーレーンもついでに訪れ、カザフスタンでは黒川紀章建築を見てトルクメニスタンの通過の際にはたまたま地獄の門が目に入ってきて、イランでは改めて神権政治の共和国とサウジ王国の人やライフスタイルや社会システムの違いに感動し、基本的な観光地でありペルシャ帝国史が詰まっている地を回りながらも、引き続きマニアックな辺境も訪れた。山肌に張り付く家の屋根を縦横無尽に移動し、風舞う丘の1000年続く風車には言葉を失うほど感動をし、カスピ海や酒とも出会いながらも心を動かされっぱなしであったイランをようやく抜けてキリスト教を初めて国教にした伝統のアルメニアとその占有地のナゴルノ=カラバフまで来たら10月が終わった。

 11月。旧約聖書の舞台がごろごろ存在するアルメニアを回り、友人と合流しジョージアワインをできる限り飲み、旧ソ連辺境史跡訪問、未承認国家巡り、(おそらく日本人初の)二度目のアトス山訪問、等をする予定である。時間は限られているため、アグレッシブに動いていきたい。

 12月。最近はぼんやり帰国を考え始めた。11月の未承認国家巡りとアトス山での満足度次第で、東欧の旧ソ連諸国を回るか、あるいは一度帰って冬の金沢に遊びに行く友達と合流するかが決まる。

 2020年1月以降。全くの未定である。まだ見ぬ辺境を旅するのか、日本や海外で起業をするか、あるいはまた会社員に戻るのか。それ以外のまだ見ぬ選択肢か。もちろんブランクがあり求職活動がうまく行かないかもしれない。そもそも前職の延長と旅を天秤にかけて好奇心の勝る旅を選んだのは僕自身だし、今さら過去の決断を後悔する事などないし、実際に旅をして心底貴重で良質な時間を過ごせたと自負している。
色んな縁の中から最後に決断をするのは僕自身である事からも分かる通り、この後どこまで行っても選ぶ側だし、易きに流されるつもりはない。
選択肢が多い状態や定職に就かない状態が不安になるになる人もいるが、僕にとってはむしろ好都合でワクワクしている。死ぬまでずっと何にでもなれる状態でありたいとさえ思っている。たとえ何者かになれなかったとしても。
だから次に何か決断をする時には精査した上で、最終的には一つに決めて、プレッシャーとワクワクのある環境において全力を尽くそうと考えている。これも好みの話だが、一つに決めないと時間の没頭も課題の深掘りも出来ないので僕は最近の世の流れの複業には相当向いていないんだなと感じる。
いずれにせよ、東京で高給を求めて働く事だけが最適解という、暗黙の了解として僕の中にあった考え方からは、だいぶ解放されたのは今回の旅の収穫だと思っている。

(2020.1.26追記)10月の末に書いた記事にこの部分だけ追記しました。11月はコーカサスと東欧、12月は日本、1月は南米と南極の旅を経て、昨日、無事日本にたどり着きました。(追記おわり)

旅に期限がないのに、なぜ、急ぐのか。

 僕の旅には期限がない。しかし「好奇心の限り五感でその地を味わい尽くす」という明確な目的がある。旅は現実逃避ではなく学びの機会なのだ。フィールドワーカー精神を持ち合わせてしまったため、興味のある地へは実際に訪れない訳にはいかない。もちろん僕が会社員をしていた頃に、休みを取って訪れた場所ではそこまで意識が高くないこともあったし、それこそ朝から晩まで酒に浸っていたベルギーやドイツのビール巡りの旅もした。しかし今、あえて長期で訪問している旅では、少し前までに自分もやってきたそれらの旅とは様相を異にすることの方が多い。旅先では世界遺産、歴史的建造物、博物館には訪れる。ツアーも高いという理由で入らないなんて言うことは論外で、自力でいけないところは積極的にツアーを使って参加する。ご飯は郷土料理は食べるし一番評判のいいレストランには高くても行く。長期の旅ではあるが、多分他の旅人より滞在期間は短いし、案外サクッと移動をする。夜行バスで到着して半日滞在して移動する事も、二日連続夜行バスなんかもざらにある。でも見ているものはたぶん多い。時間を濃縮させつつも、移動距離は多い。実際にアフリカ⇔ヨーロッパ⇔日本を頻繁に行き来しているため予算の観点からは非効率といえる。しかし頻繁な往復によって文化・慣習・ライフスタイルの相対化が容易にできるし、経験を逐一言語化していくことにより、過ごした濃い時間が忘却の彼方に行ってしまうことを水際で防いでいる(つもりである)。これ以上の濃さがないくらいには濃い時間を過ごしているが、なぜ薄い時間ではいけないのか。正確に言えば、いけないのではなくて僕にとって望ましくないだけだ。仮に時間の過ごし方が薄くなってしまえば、僕はどこかで「せっかく旅をしているのに時間の無駄だ」と思ってしまうからだ。そして勿論旅のスタイルは十人十色であるから、どちらが良い・悪いの話ではないし、そんな簡単な二元論では片付けられない。適切な濃さというのは、単なる好みの問題である。

 辺境の地で濃い時間を過ごすと、ビザに入場料に移動に食事に体験に、あらゆる散財をするため、お金はかかり貯金は減る一方である。しかしそこで得ることができる効用(物理的な達成感と、セレンデピティのような知識と経験がつながって一気に視界が開ける精神的充足感)の前では、そこで減った貯金など取るに足らないし比較の俎上にも上がらない。帰国してまた働いて貯金をすればいいだけだ。そもそも節約を最優先に長く旅を続けることを目的にはしていない。節約と経験がトレードオフになるような瞬間、旅先で節約をとるなど馬鹿げている。出来る限り濃い経験をしていち早く旅を終わらせたいとすら思っている。かと言って費用対効果で旅をしているわけでは全くなくて、本当に費用対効果で物事を判断する人なら仕事を辞めて無期限の旅には出ない。
旅に期限がないことと、旅の時間がないと思うことは全く矛盾しない。僕の人生や時間は皆さんと同様に有限であり、その観点からは―――やはり時間がないのだ。

 生き急ぐような動き方は、前職で骨身に染み付いたワーカホリックな性質がそうさせているのかもしれない。いや、ワーカホリックどころか、大学一年の頃から、生き急いでいるよねとはよく言われたものだ。従ってそれは先天的なものか、少なくとも高校卒業までには身についていた考え方と言えよう。
昔からいつ死ぬかわからないけど、明確に死を意識して生きてきた。かといって延命に全精力を注ぐわけでもなく、よく酒は飲むし健康の維持はそこまで心がけていないからふとした瞬間に死ぬかもしれない。その時は仕方がない。でも生き急いで生きていて、それでも早く死ななかったら残りの時間はボーナスステージだ。

 無職で、職探しもろくにしていないし、何かの手段、たとえばブロガーやYouTuberになって稼ぐと言ったことも全くしていないし、一つのことしかできない僕には旅以外に何かするなんて真似できない。人生の貴重な時間、ましてや自己満足である旅の貴重な時間を他人のために使っている時間がない。僕は仕事をしているのではない。旅をしているのだ。

では、なぜ旅の時間を使って文章を書くのか。

 noteを書くきっかけは、友人が僕の旅を「世界の解像度を高める実験をしているように見える。それは不透明で複雑系の世界においてやるべきことが分からない若者の一助になるかもしれない」といい、彼の一言に後押しされ、書き始めた。とはいえ、完全に他人に向けて書いているわけではない。自分のためにも書いているし、最近はむしろ自分のために書いていると言っても過言ではない。

 先日、10年前に旅をした際の内容を最近振り返ってみようと試みた。書いていない多くのディテールは忘却の彼方にあったことに、自分の記憶力の限界を感じた。神は細部に宿るし細部の手触りが自分の琴線を刺激してその時の空気感や記憶をリアリティのあるものに引き戻す。そう思っているが、10年前にせっかく自分が五感で感じたすべての記憶が思い出せない。旅で感じた些細な事を書くことで自分の記憶装置を外付けHDDに置く作業をしているのかもしれない。特に直近は書くモチベーションが上がり想定以上に更新をしているが、それは自分のHDDたる脳みそがかつて持ちえなかった忘却機能を、最近持ち始めている事に対する焦燥感から指が勝手に動いているのかもしれない。

 なお、書く内容は、自分が読みたい文章を書くようにしている。それは青年失業家の田中さんの「読みたいことを、書けばいい」に影響されて、読み手=自分と想定して書くようにしたら、気が楽になって筆が進むようになったからそうしている。 回りくどいことは承知している。あるいはシンプルに言えば三分の一の分量で済むかもしれない。でも、それじゃいけないのだ。
 純白か漆黒かを主張したいわけではなく、時系列によって白も黒もあり得れば、あるいは白と黒が49:51で混ざっている場合もあり得る。ちょうど半々のような何も言っていない意見は好みではないので少なくともポジションは取るようにしているけど。だから不意に文章を短くし得ないのだ。また長くなってしまった。

 気づけばnoteも初めて2か月弱であるが、すべてのnoteを合わせると10万字ほど書いているようだ。旅の貴重な時間を使っているが、旅先の夜は長く、自分が読みたい文章を書く方針からブレておらず、残したいことは残せているため、時間の使い方に後悔はない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。最後に、いくつかのお気に入り写真を載せて締めくくります。


この記事が参加している募集

自己紹介

万が一サポート頂けましたら、noteの質向上のためのコト消費に使わせていただきます。