見出し画像

アトス自治修道士共和国(再訪)

数多の辺境を回ってもギリシャ・アトスほど確信に満ちた地はない。アトスは辺境の一つの完成形とさえ思った。そしていつの日か再訪を望んでいた。今回はその願いが叶う形でアトスを再訪した。

これは二度目のアトス山訪問記。前回からほぼ5ヶ月ぶりの訪問で、11月18〜21日に訪問をした記録である。

一度目のアトス訪問記はこちら

結論から言えば、想像以上の満足感を感じてアトスを後にした。それを帰りの船の中でまとめた。

ところで前回は一人、今回は、先日ジョージアを一緒に回った友人と二人で入山。三週間前に、五日ほどの幅で候補日程を指定し聖アトス山の管理事務局に連絡をし、入山可能だったのが11月18日との事であり、その後航空券などを確定させた。アトスに入るのはオフシーズンであったとしても日程抑えてからではないと厳しいため、依然長期旅行者でないと難しいだろう。あと女人禁制。ジェンダーではなく、生物学的な意味である。

ギリシャ第二の都市テッサロニキから港町ウラノポリまでバスで向かい、ウラノポリで入山許可書を30€払って入手。これが3泊4日の滞在費であり、入山許可証はビザのような効力を持ち携行と修道院の受付での提示が求められる。ウラノポリ港から中年男子ばかりが高速船に乗り込む。この時点でアトスを感じる。さらば喧騒、女性(動物含む)、広告、世俗、世界のどこにでもいるドイツ人観光客。

「一日目。イヴィロン修道院」

12時半、アトス入山

無事にアトスの入り口ダフニ港に着いた。首都のカリエスへも大型バスで13時には到着。最近はバスが走れる程度の道も整備されて、半年前には見られなかった大型バスが走る。まだ4割方は未舗装ではあるが。

14時、イヴィロン修道院

カリエスから乗合バスでイヴィロン修道院に到着。ここはコーカサス地方のイベリア人が作ったとされる修道院であり、アトス最大にして最古のグラン・ラブラ修道院と兄弟関係の修道院である。

三番目に土地面積が大きい修道院としても有名で、30人ほどの修道士が住んでいる。

修道院はたしかに大きく、石造りの建物が並ぶ。入り口には出荷用の丸太が大量に置かれている。この修道院の貴重な財源だ。奥には畑があり、りんご、オリーブ、ぶどう、キャベツが採れる。広々とした庭には馬が草を食べている。

また、小教会にある縦2m、横3mのマリアのイコンが有名で、今でもジョージア人がこの修道院にきては、彼らが信じている予言?を語る。このイコンはアトスの地が戦火に巻き込まれた際にはジョージアの修道院に格納する予言がある。さらに、実際にそのために既に教会ジョージアに作ってしまったとのことだ。気が早い。いずれにせよジョージアでは有名な修道院だ。

まずはアルホンダリキ(受付)で修道士に「日本人モンクがいる」と聞かれて驚く。出会えたらいいなと期待を寄せる。

15時半、お祈り開始

お祈りをしている際に修道士に「見つけました」と話しかけられて、まさにそれが日本人修道院であった。案外すぐに出会えて胸を撫で下ろした。夕食後の18時からお時間もらえることとなった。僥倖である。

17時、集団で夕食

豆、オリーブの実、パン、トマト、青リンゴと極めてシンプルなもの。

これは曜日が影響している。月曜日はエンジェルを祭る日(※理解違ったら訂正します)であり、正教徒は食事制限をする日、との事で材料は至極シンプル。そして修道院は他の曜日と異なり別場所で任意でご飯を食べる。

参考だが、水、金曜はそれぞれキリストの処刑確定と執行日であり、この2日に関しては修道士は乳製品、肉、油(植物性含む)を控えている。これは、体を内側から清めるという理由がある。

18時。雑談タイム

修道士が住む棟の共同キッチンで、ギリシャコーヒーと山草のお茶を飲み、ドーナツとクルミをつまみながら、日本人修道士が友人と僕に対していろんな話をしてくれた。彼にとっても知人以外でこの地を訪問する日本人はこの一年いないそうで、まず「何故この地に来たのか?」を僕たちに聞かれた。お互い芸術学と文化人類学を専攻しており、こと正教に関しては大した知識がない事もつまびらかに話して、「正教自体有名ではないよね」と受け入れてもらった後に、色んな話をしてくれた。

日本人修道士の話

日本人離れして長く伸びた白髭と眼力が印象的な方だった。アトスには3年住まれていた。これ以上はプライベートな話になるため割愛しておく。

ちなみに「日本人修道士はアトスに二人いる。もう一人はアトス北西部の海沿いの修道院に住んでいる」とのこと。

教会のギリシャ語

ギリシャ正教ではシャンティを独唱する場面や掛け合う場面があり、これはギリシャ人ならば意味が分かるのか?と尋ねた所「ギリシャ人にとっての中世ギリシャ語は、日本人的な感覚で言えば『源氏物語』を聞くような感覚で、語尾などが異なるから難解な言葉に聞こえる。最近の言葉で表現するのは難しいから訳していない」とのこと。(ここから感想)たしかに、汝の上に平安あれ、のような古語と、あなたの上に〜では伝わり方は違うが、結局は権威性を保つためにどの宗教も古語を使う傾向があるのか。

修道士と仕事

修道士は能力を申告した後に、能力を鑑みて適当な職を任命される。彼の場合は服の裁縫と食堂担当。とはいえあまり若い人がおらず、年老いた人は山奥にも行けないので、任命された二つの職以外にも力仕事などの雑用をする事もある。

アトスの開発

道路開発が進んでいるように思えたので、財源はどこかと聞いたところ「EUとUNESCO」とのこと。

各修道院はEUの援助で成立している部分がある。その代わりに道路も開発して観光客を増やす事を目論んでいる。EUサイドからすれば観光客を増やせば財政難のギリシャが儲かるからこの地に投資をしている、という算段だ。加えてUNESCO世界遺産にも登録されているため、アトスは修道院の整備が求められている。また、EU側からは女人禁制の解除のリクエストも出ており、アトスサイドと既に何年も議論をしている。

僕は以前にメテオラを訪問し、巨岩とその上に建つ修道院の素晴らしさには驚いたものの、もはや観光地化されたその地にうんざりした事を思い出した。現在メテオラのほとんどの修道院がその当初の役目を終えて、財政危機に陥ったギリシャの数少ないキャッシュカウとなっている。バスの渋滞と喧騒にうんざりしたメテオラの修道院からアトスに移り住んできた修道士も多いと聞いた。アトスが整備されて観光客が入り込んだら純粋な祈りの聖地はこのままではいられない。メテオラの現状を想いつつ、アトスにはそうなって欲しくないと僕は感じた。

また、アトスには、イギリスのアトス財団がアトスの修道院をつなぐ標識がある。「昔、人里離れた山奥に住むある修道士は観光客が訪れることを嫌って、標識の矢印が指し示す方を逆にした」というエピソードも彼は教えてくれた。実際に山籠りする修道士からすると、観光客は要らない。そして一部の山籠りするレベルの修道士からしたら、なおさらだ。

しかしこんな辺境の地にも、開放の力学がゆっくりではあるが働いていて、経験上これらの力学は不可逆なものであり、一度開放してしまうと後戻りできない、しかしその力は既に働いてしまっている、なんて思うとなかなか世知辛い。

翌日

朝2時半から祈りが開始、我々は5時からの小教会での祈りに参加。6時、軽食のパン、マウンテンティー、オリーブの実を食べる。

9時前、カリエス行きのバスがでるため修道士とお別れ。チーズのパンをもらって最後まで優しさに触れる。

30分程度でバスはカリエスに着き、次の目的地行きのミニバスを13時まで待機し、14時に到着。本日は雨天。カリエスからヴァトペディへは濃霧が立ち込めていて、ドライバーも道をほとんど見えていないようだったが車は思いの外早く進んだ。

「二日目。ヴァトペディ修道院」

14時、ヴァトペディ修道院到着

雨が強く、散策もできないため室内でだらだらする。この地の歴史をおさらいしよう。4世紀に船が流れ着き、この地に船がつく。海賊によって15歳の少年以外が殺される。70年の間捕虜となり、その少年はのちに85歳になりこの場に戻る。6世紀に教会が再建されるも放置され、結局誰もいなくなる。しかし10世紀半ばにこの地の文献上の創設者3人が、4世紀の伝説をもとにこの地に上陸し見つけたのが教会の基盤となる石組みであった。したがって、アトスはオフィシャルにはラブラ修道院(6月に訪問)が一番古いと言われており、このヴェトペディは二番手と言われているが、ヴェトペディ修道院の修道士は、我こそが一番と信じていた。

三週間前にトルコの団体がこの修道院にレモンの木を3つ寄進した出来事があった。レモンの木を教会の裏に建てようとしたのだが、なんと真ん中のレモンの木を置く予定地から古い石の基盤とレンガ造りの基盤が見つかり急遽レモンの木の寄進は2つで中止。ようやく伝説が史実として証明されようとしている、そんなホットな地である。

17時、夕ご飯

シマンドロの音が修道院内に鳴り響き、僕は飛び起き協会の前の食堂へ向かう。今日のメニューは肉無しラザニア、パン、ギリシャヨーグルト、きゅうり、ピーマン、ぶどう酒。付け合わせは、青唐辛子のピクルス、レーズンパン。果物はりんご、ざくろ。調味料はオリーブオイル、レモン、塩。昨日に比べてだいぶ豪華になっている。ここでも十字架を模した部屋に、馬蹄形の大理石のテーブルを囲むように座り、鐘の音がなるとまるで試合のゴングのように、皆一斉に食べ始める。聖典を読誦している間に食べなければならないから皆必死で、その姿はまるで最後の晩餐のようだ。

また、ビザンチン時代のフレスコ画が見事に描かれた部屋の作りと雰囲気に、一気にタイムマシンに乗って異世界に来た感じを感じる。やはり、アトスは軽々と時代を超えてくるあたり、比類なき場所だ。これを感じにきた。

17時半、教会へ

ご飯を食べ終えて、一人のアメリカ人で南カロライナ州出身の修道士に話しかけられ、教会の案内をしてもらう。ガイドの彼の後ろに、カトリックでヨーロッパ旅行中のアルゼンチン人、正教徒でアトス10回目のフィンランド人、同行者の友人と僕が続く。ガイドの彼は話し好きで、各種イコン(多くはマリアがキリストを抱えているものである)とそのミラクルを説明してくれた。ミラクルの証として、ミラクルを起こしたものはこの地を再訪し、イコンの下部に金属のお守りや、ミラクルが起きた体のパーツなどを吊すのだが、2006年アテネ五輪の銅メダル(ギリシャの柔道選手が獲得したものだ)までもが飾られていたのには流石に驚いた。

19時半、図書館

教会の中であった修道士に、「日本語の本が我が置いてあるがどんな種類の本か教えてほしい」と依頼され、図書館へ向かう。その修道士は館長であった。

図書館は広く、2500冊を超える蔵書がある。職務を終えた修道士たちは、各自棚の前で立ったり椅子に座ったりし本を読み、8人がけの机に一台あるパソコンで調べ物をしている修道士もいる。蔵書は聖書中心に見えるが、マザーテレサの本などのキリスト教関連の本もある。日本語の棚も一番奥にあり、10冊程度のその棚は8冊が聖書、残りがギリシャ語の教本であった。

翌日

8時から食堂で朝ご飯。人数が多いこの教会は食事がまるで試合のようで、開始・終了ともにゴングが鳴りその間に一気に食べ物を口に入れる。メニューは、パン、チーズ、洋なし、オリーブの実、プルーンの実。調味料は塩、レモン汁。やっぱり千年の時間を軽々しく超えてくる感覚はここでしか味わえない。

「三日目。グレゴリウス修道院」

10時、移動。

バスを出発し、アトスの入口ダフニ港へ。そこからシモノスペトラ修道院まで山道を二時間徒歩。シモノスペトラ修道院は厳格な予約管理をしており無予約の僕たちは泊まることが出来ず。何はともあれ、シモノスペトラは前回に引き続き訪れた修道院であり、アルホンダリキにいるアルパカのような長い睫毛を持ち印象的な微笑みをする若い修道士と、くしゃくしゃな笑顔で哲学を教えてくれたシニアな修道士それぞれに再会できて、かつ先方も覚えてくれていて大変嬉しい気持ちになったし、来てよかった。

仕方なく、山道を下って登って一時間半のグレゴリウス修道院に向かう事に。ここへはアトス入山9回目のギリシャ人シニア二人組(彼らも予約をしていなかったため宿泊拒否されたのだ)が道案内をしながら一緒に向かってくれた。そして無事到着。

15時半、グレゴリウス修道院

ここはアトス山に20ある修道院のうち17番目のヒエラルキーに位置する。この修道院は、海の上に切り立つように存在している。

異教徒に優しい修道院であり、スムーズに部屋が与えられた。部屋もまた海の上にあり、波音がとてもよく聞こえる。東の窓からはサンセットも見える、いわば「オーシャンビュー」のいい部屋が与えられた。トレッキングの疲れと波の音の心地よさについウトウトしていたら眠りに入ってしまった。

17時、教会

手短な祈りを行う。この日は特別で、翌日が天使ミカエルとガブリエルの特別な日だからビザンチン時間の零時からお祈りを始めるのだという。我々の時間で言えば夕ご飯の後、19時から翌2時までだ。従い祈りの時間は短縮。

17時半、夕ご飯

メニューは豆のスープ、パン、オリーブ、りんご。調味料は塩、胡椒、ビネガー。水曜日だから粗食である。開始の合図もなくささっと食べ始め、終了の合図もなく適度に食べて食事を終えた。

19時、就寝

教会では上述のお祈りが始まり、一緒の部屋のギリシャ人シニア二人は教会に行ってしまった。

残された僕たちは、波が港の石壁に衝突する心地よい音を聞きながら、まるでその音が僕たちを包み込み海の上に浮遊した感覚にさせるようになりつつ、穏やかな気持ちで眠りに入った。一切の音と、邪魔するものーーー人の気配も車も電車などーーーもない、アトスでの睡眠は、極めて贅沢な時間である。

「四日目、ダフニそしてウラノポリ 」

翌日

9時から朝食。ミカエルとガブリエルに関する祈りの言葉を聞きながら食事開始のゴングが鳴り食べ始める。メニューはスズキ科の魚とジャガイモのグリル、山草、パン、チーズケーキ、ミカン。調味料は塩、胡椒、ビネガー。飲み物はぶどう酒、水。食事前後も食堂で祈りが行われて普段より豪華。食べ物も豪華。

10時半のフェリーでダフニへ、12時10分のフェリーでウラノポリへ向かい15時着。久々のこちらの世界だ。

道程、友人がパスの中から世界中にどこにでもいる、ぼんやりしているタイプのおじさんを見つけて、「あぁアトスから出てしまったのだ。」と呟き、やけに納得した。アトスにはぼんやりする暇は修道士にはなく、働くか、祈るか、の日々を彼らは送っていたからだ。

さいごに

一般的に修道士として修道院に住むことは、結婚のように比喩される。一度特定の修道院に住んだら、事情がない限り他の修道院に移り住むことは少ないからだ。ましてやここは聖地・アトスである。

アトスには、確信を持って、この地で祈りを捧げて、最後の審判に比べればとるに足らない、短い短い残りの死ぬまでの時間を過ごすと決めた、確信に満ちた人が、毎日祈りを捧げています。

「あなたは、何に確信を持って生きますか?」

前述の通り、グローバルレベルでフラット化の力学は動き出している。現在1日あたりギリシャ人100人、外国人10人の巡礼客の枠数がもし増えたら、どうなるだろうか?将来、万が一、この地に女性が入れるようになったらどうなるだろうか?

この、素晴らしい地を多くの人に知って欲しくない一方で、早く祈りの地へ来て、時空を超えた確信の筆舌に尽くしがたい素晴らしさに、触れて欲しいと思うくらい良いのでnoteに残した。

それでは。

サポート頂けたら、単純に嬉しいです!!!旅先でのビールと食事に変えさせて頂きます。