「小賢しさ」と「ズル賢さ」の違いは。~答えを写す②~
#20240915-464
2024年9月15日(日)
ノコ(娘小5)の考えていることが私と違い過ぎて、どういういきさつでそこに至ったのか読めないことがしばしばある。
責めるわけではなく、今後の参考とノコの思考の傾向を知りたくて、問うことがあるが大抵顔をしかめられる。これは予想範囲内の反応なので、「ただ知りたいだけなのに」と思いつつも諦める。
「そこまで考えてないわよ」
独身時代、実家暮らしをしていた私は専業主婦の母と話し合う時間がたくさんあった。
成人してからは特に「なぜそう思うのか」という幼かった頃には尋ねられなかった疑問をしばしば母に問うた。
すると、母は首を傾げてから面倒くさそうにそう返した。
「いちいち、人はそこまで考えてなにかいったり、したりしてないのよ」
自分が常に多数派側に属し、「普通」であるといえる母もそれはそれでなかなかだと思ったが、私は母を通して「大抵の人」は自分と違う考えである可能性が高いことを学んだ。
その経験とノコがまだ10歳ということもあり、私はその心を追いかけたいが、それ以上は追わない。
自分の心にもぐって考えや心の動きを探して、言語化するのが億劫な人も世にはいるのだ。
それでも、ときには期待せず、軽く尋ねてしまう。
「ノコさん、塾の宿題の答えを写しちゃったことだけどね。怒ってるわけじゃなくてさ、もしよかったら教えてほしいんだけど」
ノコが下げてきた夕飯の食器を受け取りながら、私はいった。
「写した答えにもママに『花丸して』っていってきたよね。それをいうときって、ドキドキしたり、心がギュッと縮こまったりしない?」
「するよ」
へえ! 良心の呵責のようなものはあったのか。
「それでも、いってくるのって、勇気っていったらヘンだけど、しんどくない?」
「だって、いつもと違うことをしたほうが怪しまれるじゃん。いつもと同じようにしたらバレないと思った」
へええ!! 思わず、吹き出してしまう。
「なるほど」
あの幼かったノコがなんとも小賢しくなったものだ。
感心すらしてしまう。
私がノコに対して抱いたのは「ずる賢い」ではなく、あくまで「小賢しい」。
この違いはなんなのだろう。
ノコが寝た後に、このやりとりをむーくん(夫)に話した。
「小賢しくなったなぁって、笑えちゃって」
このやるべきではないことをし、さらにそれを隠そうとしたノコの行為を笑ってはいけないのかもしれない。
だが、深刻にならず、笑い飛ばせるくらいがいいのだとも思う。
多分、おそらく、今回きりで終わるわけがない。
これから何度もノコは繰り返すのだと思う。
そこに「ずるさ」がにじんできたら、私は笑っていられなくなるかもしれない。まだ「頭がまわるようになった」と感じているうちは私に余裕があるのだろう。
子育てにおいて、「気付く」ことは重要だが、すぐ深刻になるのは別問題だ。
それを見極めるほうが難しい。
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