「教える」⑲ ~相手を黙らせることが「教える」事ではない~

「教える」。

他人と関わっていく以上、

付き合うことになる問題です。

そして「教える」という事は難しい。

この「教える」という事について考えることが、

1人1人の学びに繋がっていくと思い、続けて述べています。


前回は、

深い話を「教える」ためには、

浅い話から入るしかない。

どれだけ根拠や理論的な話が凄くても、

相手が分からなければ「教える」事にはならない。

根拠などの深い話が凄い、面白いなら、

浅い話も凄くなる。面白くなる。

ここまで書かせて頂きました。


私は最近、自分の勉強会を

主催することが多くなりました。

「教える」場が増えていくと、

やがて知らされることになると思います。

「教える」とは、

自分の力だけで、できるものではない。

他人の力も借りて、できるものだと。


上手に「教える」ことができるかどうかは、

「教える」側の力量にかかっている。

だから、上手に教えられないのは、

「教える」側が悪い。

すべての「教える」責任を、

自分1人で抱え込もうとする人が、

少なくありません。

そのために、

自分がずっと話し続けようとする。

疑問の余地がないくらい、

相手を黙らせるくらい、徹底的に話する。

それが「教える」という事だと、

思っている人がいます。

私も、そう思っていた1人です。


しかし「教える」とは、

そのような畳み掛けるような、

押し付けるようなものではありません。

「教える」側から、教えられる側への、

一方通行ではありません。

教えられる側から、「教える」側へも、

「教える」ことがある。

お互いに教え、教えられるのです。

「教える」側が主催者で、

教えられる側がお客さんではありません。

教えられる側も、主催者なのです。


本当に分かって欲しい、教えたいと、

思っておられる方の多くは、

教えられる側をお客さんのままにしない。

あなたも主催者。

あなたも主役。

受け身ばかりではなく、積極的な参加を呼びかける

工夫をしています。

「何か質問はありますか?」

と質問タイムを設けたり、

「この質問に対して、皆さんならどう考えられますか?」

と教えられる側の意見を1人1人聞いたり。

時には、少人数でグループを作って、

1つの質問に対して、ディスカッションする事もあるでしょう。


相手に伝えたい、教えたいという思いが

強いこと自体は素晴らしいことです。

しかし、それだけ教えたいと思うならば、

その思いを相手を信じる、任せる方向性で、

頑張ってみるのはいかがでしょうか。

すべての「教える」責任を、

自分1人で抱え込む必要はありません。

お互いに教えたい、学びたいという思いが一緒ならば、

私はしゃべらない。教えない。

相手にしゃべってもらう。教えてもらう。

その選択が、自分1人で「教える」限界を切り開くでしょう。


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