山口尚
思想家・哲学者の文体――暇つぶしのためのクイズ

思想家・哲学者の文体――暇つぶしのためのクイズ

山口尚

文体の話が好きである。じつを言えば、「文体」なるものが本当に存在しているかどうかは確信がもてないのだが、文体が存在する「かのように(als ob)」語るのが楽しい。本ノートも、文体実在論者のみならず、文体還元主義者や文体虚構論者にも楽しんでもらえることを意図して書く。私は文体の実在に関する不可知論者である。

「文体の話が好きだ」と言ったが、作為的な文体は好きでない。むしろ、何というか、長年の執筆の経験と実践の結果として「できあがってしまった」ような文体の方が好きである。本ノートでもそうしたものに絞って取りあげたい。それほど真面目な話にはならないが、できるかぎり「客観的な」ことを書きたい。

クイズ形式でいく。はじめに文体的特徴のある作家の文章を見る。読者におかれては《誰の文章か》を推理しながら読まれたい。順を追って難しくなるように配置した(つもりである)。対象となる作家は思想家・哲学者に限られる。おそらく分析哲学が好きなひとに有利なものになるだろう。

ひとりめは簡単である。

問1.
みなさん、こんにちは。内田樹です。
また本を出しました。
どうもすみません。
新刊の冒頭で「どうもすみません」と謝罪するというのも変ですけれど、新刊再発とりまぜて毎年10冊も本を出していれば、お買い上げのみなさんに「ありがとうございます」というよりは「ご迷惑をおかけしております」と言いたい気分になるのも無理からぬことです。
[i](引用箇所はあとでまとめて記述――先に見てしまうと後の問題の答えまで見えてしまうので注意)


冒頭に「内田樹」とあるので内田樹の文章だと確信できるが、おそらく「こんにちは。〇〇〇です」と伏せ字にしても、気づいたひとは多いのではないか。「みなさん、こんにちは」は一定の界隈では内田樹のエピセットのようになっていて、例えば「みなさん、こんにちは、渡邊二郎です」だと、いささか違和感がある。

文体の特徴は「軽い」ところ(けなし言葉ではない)だろうか。たしか「ドライブ感のある」文章だと言われていたことがあると思うが、同感である。軽さもあってスイスイ読める。

では次の問題。

問2.
思想・文化史的に眺望するとき、われわれは目下“世界観的枠組”の更新期に当面しているように看ぜられる。この転換局面は、それがいつ何を以って始ったかを確言するのは困難であるとはいえ、ここ一世紀に垂(なんな)んとする期間継続していると言うことはできよう。――現状では、しかし、当の推転が渦動的状況にあるため、人はとかく方向を見失いがちであり、茲に哲学をはじめ諸学の“混迷”“閉塞”が出来(しゅったい)している始末である。[ii]


ルビのふってる漢字には丸括弧にそのふりがなを書いたが、私は漢和辞典を引くまで「茲」が読めなかった。内田樹と比すると文体特徴がビビットになるが、けっこう「重い」文体である。いわば「漢字の多い」文章だ。誰が書いたかと言えば、分かるひとには分かると思う。廣松渉である。

パッと見た印象としては「作為的な」感じもするが、廣松がこの種の文体でたくさんの文章を書いているという事実に鑑みれば、《彼はどうしてもこういう書き方を選んでしまう性質であった》と言えるかもしれない。いずれにせよ少なからぬひとは「もう少し簡単に書いてくれればもっと読みたくなるのに」と遺憾に思っている――廣松の思想の深みは明らかであるので。とはいえ慣れればこれはこれでいいところもある。

それでは第三問目。

問3.
[…]近代経済学者は、A嬢・B夫人の選択行動をこう説明する。両名は等しい予算制約のもとで、現にAは(僅かなパンと)多くのミルクを選択し、Bは多くのパンと僅かな布を選択した。事実そのように選択した以上、それらは各自の選好を顕しており(顕示選好)、その選択の違いは、各自の「無差別曲線」で表わされる選好構造の差異を示したにすぎない。対等の立場で競りに臨んだ以上、各人ともに、それぞれの選好にもとづく満足を最大化したのである、云々。この手の経済学者による「科学的な」(初等的な微分方程式を応用しうる程度の)「説明」によれば、チンコロ姉ちゃんの“肌の健康”も、母乳不足に悩む母に育てられる“乳児の生命”もミルクへの「ニーズ」としては無差別である(消費者主権、個人主義!)。後者がミルクを競り落とさなかったということは、要するに、後者のニーズがさほど切迫的ではなかった、ということでしかない。かくて、功利主義を騙る経済学者のいわく、市場とは、自己の選好にもとづく満足を最大化せんとする合理的個人の、合理的関係であり、「市場均衡すなわち主体均衡(パレート最適)、そしてその逆」。
いくらなんでも、これは無茶すぎる。この実感こそが、古典的功利主義者の倫理学的問いを構成する。
[iii]


30年以上前に書かれた文章であり、具体例がやや時代を感じさせるが、この著者の書いたパッセージの中で気に入っているものである。なぜなら(私が考えるところの)著者の特徴が現われているからだ。書き手は大庭健である。

パッと見では「廣松的な」硬さを感じさせる文字面であるが、読むとなかなか「軽い」。理由はおそらく、ややつっぱったところがあるからだろう。本人もグレたところがあるひとだったのかもしれない(私は会ったことがないのだが)。

もう少し客観的なことを指摘すれば以下のようになるだろうか。大庭の文体には〈硬い術語を書きたい〉と〈読者へ内容を平明に伝えたい〉という或る意味で「相容れない」欲求が見てとれる。両方を追求すればうえで引いたような文章ができる、ということだろうか。

次に四問目

問4.
しかし、プロタゴラスは、再び反論するだろう。「「「誰々にとってではなく、端的に人間尺度説は偽である」はそう言う者にとっては真である」は私にとって真である」と。プロタゴラスによれば、「端的さ」もまた「……にとっての端的さ」であり、その限りでの「端的に人間尺度説は偽である」は、プロタゴラスも承認する。ただし、その場合の「端的に……」は、「私(Pr.)にとって」の外側ではなく、その内側にある。
さらにしかし、反対者は、そのような限定句つきの「端的さ」なども、そもそも「端的さ」ではないと言うだろう。
[iv]


ここで展開されているロジックの運びは、業界ではときに、英語の動詞で「Irifuji」、動名詞(現在分詞)で「Irifujing」と呼ばれている。すなわち、同型の論理によって事態がどんどんと高階化(あるいは低階化)していく、という理路が「イリフジング」である。文章の書き手は入不二基義。

おそらく入不二は現代の哲学者のうちで最も「抽象的な」議論を行なうひとのひとりである。私は彼の文章を読むと「発想を肉づけるような具体例が欲しい」と感じることもあるのだが、よりフェアに言えば、彼のやりたいことが彼の高度に抽象的な表現を招来するのだろう。全体として、読んで楽しく学ぶところも多いのは事実である。私は入不二のスタイルに「おおいに感心する」が、次の書き手も同意のようだ。

問5.
私はこうした議論の立て方におおいに感心する。こういう論じ方は誰にでもできるものではない。少なくとも私のレパートリーにはない。だいたいにおいて、私が入不二の書くものに感じ入るひとつの理由は、いわば彼がもっている思考の「身体能力」とでも言うべきものにおいてである。例えば、私が体操選手だったとして、私にはできない動きを見せている選手がいれば、うらやましく、そしてくやしくもなるだろう、そんな感じである。私は、亀の最初の一歩を拒否することによって、キャロルのパラドクスを葬り去ろうとした。しかし、それで済ますわけにはいかない。私がめざした解決は、亀とアキレスの無限の対話への運動を前提にしているのである。入不二はそう論じ、私は「なるほど」と唸る。
だが、その思考の美技に見惚れる一方で、ふと我に返って、またあの声が聞こえる。(だけど、つまり、どういうことなんだろう。)
[v]


入不二の本の解説の文章である。書き手は、一方で入不二をけなそうとしないが(これは解説の慣例上当然だが)、他方で単純に称賛しようともしない。さらに言えば、解説ではひとはついつい“judgmental”(すなわち「上メセ」の評価を行ないがち)になるのだが、そうしたところがない。気を遣うタイプかな、と感じたりする。

字面を眺めれば《硬い言葉を避けるひとだろう》と推察できるが、書き手は野矢茂樹である。彼は――私のフィクションだが――文章を見返して、漢字をひらがなに開く作業をたまに行なうだろう。「悔しく」ではなく「くやしく」にしよう、など。野矢の文章を読んだ後ただちに廣松の文章へ目を移せば「漢文か?!」と思ってしまう(これは実話である)。

では次。

問6.
私がその汚い店に入る理由は、とてもつまらなくなったとき、もっとつまらなくなるためである。人生にくたびれた男たちばかり周りにいると、予定通りずんずんつまらなくなってゆき、酒がよく回ってくる。[vi]


この理屈の運び方が特徴的である。〈つまらないときには、ますますつまらなくなることを目指す〉というのは不条理だが、こうした選択が似合うひとが哲学業界には存在する(おそらく複数人いる)。そのうちで最も有名なのは中島義道であり、引用の書き手もこのひとだ。

中島に関しては――いささか“judgmental”なことを言うが――じつのところそれほど文体的特徴はなく、むしろ「そつのない、バランスのとれた、いい」文章を書く。ときに内容がエキセントリックであるので、文を読むだけで「中島義道だな」と気づくことがある。

さて次の問へ。

問7.
しかし、ちょっと困ったことがある。「私は存在する」は、外部世界の存在を疑ったあとで発見されたものだ。だから、そこから他の知識を復元していくにあたって、デカルトは外部世界にある道具立て(たとえば、外在主義者が手を出すような因果連鎖)を用いることはできない。したがって、存在が確実になった「私」の中に見つけることのできるものだけを使って、外部世界についての深淵も正当化されていることを示していかなくてはならない。そんなことができるのか? ごもっとも。まず無理でしょう。でもデカルトがどんなふうに頑張ったかを知ることには意味がある。そこで、デカルトがどのように方法論的懐疑のプロセスを逆行して、外部世界についての知識を回復しようとしたかを検討することにしよう。[vii]


いわゆる「語の選択」に特徴がある、と言えるかもしれない。「ちょっと困ったことがある」や「ごもっとも」や「まず無理でしょう」などの表現を見ると、とくに業界人(さらにとくに分析哲学に関わるひと)は《あのひとだろうな》と思いつく。

引用したのは2002年の『知識の哲学』のひとつのパッセージであり最近の「戸田山文体」にはまだ進化していない。そう、先の引用の書き手は戸田山和久だ。参考のため2014年の『哲学入門』から適当に文章を引いておこう。

オレはやるぜ! 何を? 何かビッグなことを……。というわけで、この章には「機能」というたいへん地味なタイトルがついているけど、やることはかなりビッグだぜ。どうビッグなのかについて、少し解説してから始めよう。[viii]

哲学愛好家(私も或る意味でそのひとりだが)のうちには、この本を読みたいのだけど文体が耐えられないというひとがいる。それは分からなくもないのだが、戸田山がこうした文体を選択する理由に目を向けるのも大事である。じつに、『哲学入門』に関しては、《文章が難しくて読めない》という言い訳は成り立ちにくい。この意味で、読者の知性がストレートに試される文体だ、とも言えるのである(とはいえ別の次元の知性は引用したようなスタイルを「嫌悪」しうるのだが)。

次は難しいかもしれない。

問8.
私は、ワインには興味がないが、ソムリエという職業には、むかしから興味をもっていた。なぜ、そんな仕事が存在しうるのか。これは不思議である。ひとつには、スノビズムの問題があるだろう。それはそれで興味深いとはいえ、もっと深い謎がある。[ix]


引用の文章の短さが問題の難易度を高めている面もあるが、思うに、これだけの長さのうちにも書き手の特徴が現われている。私がこの著者らしさを最も感じる部分は最後の文――「それはそれで興味深いとはいえ、もっと深い謎がある」という箇所――だ。こうした修辞法は、書き手が自らに認める〈哲学の絶対音感〉を示唆する(厳密には引用の文を書くには「相対音感」で十分なのだが)。引用の書き手は永井均である。

永井均も――あくまで私の評価だが――中島義道と同様に、それほど文体特徴はない。語の選択も、廣松や戸田山に比べると、より「普通」に近いと思う。他方で、これまで出会ったことのない(少なくとも私が見たことのない)修辞法によく出会えるのも、永井の文章である。

文体についてはまた別の機会にも書きたい。

引用箇所
[i] 内田樹『こんな日本でよかったね』、文春文庫、2008年、3頁。
[ii] 廣松渉『相対性理論の哲学』、ブリタニカ叢書、1981年、16頁。
[iii] 大庭健「訳者解説」、アマルティア・セン『合理的な愚か者』(大庭健・川本隆訳)、勁草書房、1989年、所収、268-269頁。
[iv] 入不二基義『相対主義の極北』、ちくま学芸文庫、2009年、69頁。
[v] 野矢茂樹「相対主義の極北 解説」、入不二前掲書、所収、300頁。
[vi] 中島義道『狂人三歩手前』、新潮文庫、2006年、48-49頁。
[vii] 戸田山和久、『知識の哲学』、産業図書、2002年、120頁。
[viii] 戸田山和久、『哲学入門』、ちくま新書、2014年、108頁。
[ix] 永井均『マンガは哲学する』、岩波現代文庫、2009年、29-30頁。

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自由意志の哲学