哲学は客観的か、それとも主観的か

哲学においては《知識の条件は何か》や《自由意志の存在と決定論は両立するのか》などが論じられます。この種の問題をそもそも「馬鹿ばかしい」ものと見なしてまったく興味をもたないひとがいるのですが、そうした態度にも何かしら理に適ったところがあると言えます。その一方でこうした問題にとらわれて人生の多くの時間をそれを考えることに費やす者もいます。そして後者のタイプの人間は、この種の問いに真剣に取り組んでいる以上、その問いを〈客観的な答えのある問い〉と見なしているように見えます。とはいえ事態はそれほど単純ではありません。

本ノートでは《哲学が取り組む問いは客観的な問題なのかそれとも主観的な問題なのか》という問いを手短に考察します。ノート全体の目標は、哲学の問いを、純粋に客観的でもなければたんに主観的なものでもない、いわば「第3のカテゴリー」の問いと見るような視座を確保することです。というのもこうした視座は《哲学とは何か》の理解に寄与するものと思われるからです。

はじめに「客観的な問い」と「主観的な問い」をおおまかに特徴づけます。一般に「客観的」と「主観的」は対立する概念と思われていますが、この対立もそれほど単純ではありません。以下、順を追って説明します。

何が客観的な問いか――と問われると難しい。とはいえ私たちは客観的な問いの基準のひとつを知っています。すなわち私たちの言葉づかいや考え方の枠組みに依存せずに答えが定まっているような問いが「客観的」と言われます。具体的には例えば《電子は実在するか》や《円周率の値は3以上であるか》などがこうした問いと見なされることがあります(但しこれらが本当にこの種の問いかどうかはここでは断定しません)。たしかに《はたしてこうした意味の客観的問いなどこの世に存在するのか》という問いは十分に提起可能ですが、いずれにせよ「客観性」の基準のひとつはいま規定したような〈私たちの言語や思考の枠組みからの独立性〉です。

さて哲学の諸問題へ真剣に取り組むひとの少なくとも大半は《知識の条件は何か》や《自由意志と決定論は両立可能か》などの問いを、いま述べた意味の「客観的な問い」とは見なしてはいません。というのも、例えば「自由意志と決定論は両立可能か」と問われるや否かや《ここでの「自由意志」や「決定論」は何を意味するのか》という意味をめぐる問題が生じる以上、この問いの答えは決して私たちの言葉づかいや思考枠組みから独立したものたりえないからです。おそらく、哲学で取り上げられるその他の問いについても、その大半は(ひょっとするとほぼ全部は)私たちの言葉づかいや思考枠組みへの考慮なしには答えられません。あるいは哲学者たちはそのように考えている。この意味で哲学者たちは自らの問いを「客観的な」ものとは見なしてはいないと言えます。

だがこうなると哲学の問いは主観的なのでしょうか。この問いへ答えるには「主観的な問い」の意味をあらかじめ画定しておく必要があります。ところで私たちはこの種の問いの具体例をいくつか知っています。例えば「茄子は好きか」や「夏祭りには浴衣で行くか」などがそれだと言えます。

「茄子は好きか」という問いはどのような意味で主観的なのか。例えば私はこの問いに「いや、好きではない」と答えるでしょう(私は茄子が食べられないのです)。そして大半の文脈において私のこの答えに異論を述べるひとはいないと思われます。要するに「茄子が好きか否か」は趣味の問題なのです。それゆえこの種の問いへの答えはひとそれぞれで構いません。そしてこの意味でこの問いは「主観的」と言われるわけです(「夏祭りには浴衣で行くか」なども同様)。

――ここからどうなるか。

先に述べたように哲学の問いは客観的ではないのですが、それは決して(いま述べた意味で)主観的なものでもありません。いや、より正確に言えば、哲学者たちは自らが取り組む問いをこの意味で「主観的」とは見なしていないということです。例えば「知識の条件は何か」と問われるとき、哲学者たちは決してそれを〈答えがひとそれぞれで構わない類の問い〉とは見なしません。だからこそ哲学者たちはこれを「執念深く」探究するのです。逆に、もし或るひとが哲学の問いを「趣味の問題」と見なすならば、そのひとは《なぜ哲学者たちはそれほどまでにその問いに拘るのか》を理解できなくなるでしょう。結局のところ哲学において提起される問いの多く(ひょっとすると大半)は「客観的」でも「主観的」でもないのです。

以上の議論は、思うに、《哲学で取り上げられる問いはどのようなタイプのものか》の理解を深めてくれます。それはじつに、私たちの言葉づかいや思考枠組みから完全に独立の問いではないのですが、同時に趣味の問題(すなわちひとそれぞれでOKの問題)でもありません。それは或る意味で「中間領域の」問いだです。言ってみれば、哲学の問いはいささか微妙なカテゴリーを形成している、ということです。

押さえるべきは、哲学の問いは必ずしも客観的でないのだが、これは決して《それは主観的だ》という結論を導かない、という点です。一般的に「客観的」と「主観的」は反対概念の見なされており、《あらゆる問いは客観的あるいは主観的のいずれかだ》と考えられることさえあります。とはいえこうした考えはともすれば――あくまで比喩ですが――数理科学および自然科学を「客観的」の神棚にそなえたうえで、人間のその他の知的活動を「主観的」のおもちゃ箱に投げ入れるという極端な見方へ繋がります。私たちはむしろ「客観的」と「主観的」の間に何かしら「中間的な」領域を認めた方がよいでしょう。そして、哲学の問いはこうした「第3の」領域に属す、というのが本ノートの指摘です。

仮に以上の議論が正しかったとすれば、例えば《自由意志は存在するか》という哲学の問いは客観的な答えが期待できるものではありません(なぜならこの問いへ答えるさいにはそもそも「自由意志」で何を意味すべきかなどが問題になるからです)。とはいえこれは、《自由意志は存在するか》への答えがひとそれぞれであって構わない、ということを意味しません。むしろそれが意味するところは次です。私たちは《自由意志は存在するか》などの問いへ微妙なやり方で取り組まねばならない、と。――この「微妙なやり方」がどのようなものかは別の機会に論じたいと思います。

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