人間を〈考える存在〉と見なすことは止めるべきだ――ポール・チャーチランド「消去的唯物論と命題的態度」(関森隆史訳、信原幸弘編『シリーズ心の哲学Ⅲ 翻訳篇』、勁草書房、2004年所収)を読む

某所(塩飽海賊団という集まりだが)で「思考の哲学」のレクチャーを連続して行なっている。今回はポール・チャーチランドの「消去主義」についてである。読むひとによっては懐かしく感じる話題だと思う。

90分のレクチャーなのでさまざまな論点を割愛せねばならない。以下もいささか「尻切れ的な」テキストになるが、各人の思索のきっかけになればと考えnoteに置いておくことにする。

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A氏は自分の買った宝くじが大当たりすることを望んでいる。そして新聞の当選番号発表を読みA氏は自分の買った宝くじが大当たりしていることを知る。――ここから何が生じるか。

答えはいろいろあるだろうが、A氏に関しては次の予測が可能である。すなわち、A氏は自分の買った宝くじが大当たりしていることを喜ぶ、と。なぜなら彼はそれを望んでいたからだ。形式的には(Pを命題として)、Pの希望とPの知識はPを喜ぶことを帰結する、などと言えるだろうか。

ここで言及された「……と望む」・「……と知る」・「……を喜ぶ」などは哲学において「命題的態度(propositional attitude)」と呼ばれるものである(なぜなら命題を対象とする心的姿勢なので)。そしてこれらの心的態度は――クレインに関する報告で指摘したように――多かれ少なかれ論理に従うので、哲学において命題的態度はときに「思考(thought)」のカテゴリーに分類される。今回の報告でも希望・信念・期待・欲求などを総称する言葉として「思考」を用いることにする。

イヌやネコなどの動物が思考しうるかは措くとして、《人間が複雑な思考を行なえる》という点は否定できない。それゆえ〈思考すること〉や〈複雑な仕方で思考すること〉を人間固有の能力と考える者もいるし、思考する者であるがゆえに人間を他の動物よりも「高い」存在と見なす者もいる。とはいえ――今回の報告の主題だが――或る重要な意味で《私たちは思考することを「止める」べきだ》と主張する哲学者もいる。より正確に言えば、「……と望む」や「……と信じる」などの語彙は問題を含んでいるのでもはや使用されるべきではなく、私たちは人間を別のボキャブラリーで(例えば後で説明するように神経科学などの用語で)語るべきだ、と主張するわけである。かかる主張は〈私たちの言語から命題的態度に言及する語彙を消し去ること〉を提案するので「消去主義(eliminativism)」あるいは「消去的唯物論(eliminative materialism)」と呼ばれる。

本報告では、消去主義を擁護する哲学者ポール・チャーチランドの論考「消去的唯物論と命題的態度」(関森隆史訳、信原幸弘編『シリーズ心の哲学Ⅲ 翻訳篇』、勁草書房、2004年所収)を読みながら、《思考の消去は何を意味するのか》の理解を深めることを目指す。はたして信念や欲求に言及する語彙は何が問題であるのか。あるいは、仮に命題的態度を表現する語彙が駆逐される場合、人間はどうなるのか。こうした点に関するチャーチランドの考えを確認しよう。

本報告の議論は以下の順序で進む。チャーチランドの議論は「素朴心理学」を鍵概念とするので、まずはこの用語の内実を確認する(第1節と第2節)。そこでは《素朴心理学は一種の理論であり、それについて真偽を語ることが意味をなす》というチャーチランド独特の立場が説明されるだろう。これをふまえて消去主義を支持するこのアメリカの哲学者の議論を追う(第3節)。最後に消去主義に対する重要な反論のひとつを見る(第4節)。

1. 「素朴心理学」という術語のチャーチランドの理解

チャーチランドの議論を追うためには彼の用いる「素朴心理学」という術語の意味を理解せねばならない(大まかな説明を第1節の目標とする)。素朴心理学とは(チャーチランドによれば)或る根本的な意味での「理論」なのだが、はたしてそれはいったい何か。

例えば子どもBがおもちゃを或る箱の中に入れてふたを閉じる。そのあとBは園庭に遊びに行く。別の子どもCが、Bの見ていないときに、その箱を開けて中からおもちゃを取り出し自分の服の中に隠す。園庭から戻ってきたBは先生に「おもちゃを取りに来た!」と叫ぶ。そしてBは箱をかかえて(ふたを開けずに)ふたたび園庭へ出て行く。

以上の出来事に関して私たちはBの行動の意味が理解できる。そしてBの次の行動の予想することもできる(例えば私たちは《箱の蓋を開けたBが驚く》などと予想する)。ではなぜこうした行動の理解や行動の予測ができるかと言えば――ここが第一のポイントだが――私たちがBに信念や欲求を帰しうるからである。例えばふたたび園庭へ向かうBに対して私たちは、《Bは園庭でおもちゃを使って遊ぶことを欲している》および《Bは箱の中におもちゃが入っていると信じている》と考えることによって、Bに一定の信念と欲求を帰属する。そしてこの信念‐欲求ペアが〈箱をかかえて園庭へ向かう〉というBの行動を説明するのである。

このように信念や欲求の帰属は行動理解や行動予測に役立つのだが、加えて――第二のポイントとして――《帰属される信念や欲求の内容は「恣意的な」ものではない》という点も重要である。例えば先のBに対して(たまたま思いついた極端な例を挙げるが)《Bはごはんが食べたい》と《Bは17と19が双子素数であると信じている》などの仕方で命題的態度を帰することは不条理である。要点を繰り返せば、どんな信念や欲求でも恣意的に帰すことができる、というのは私たちの現実の実践では成り立たないということだ。

チャーチランドは以上で述べた事態を「法則」という語で分析する。すなわち、命題的態度の帰属が恣意的でありえない理由はそれが何かしらの法則に従うから、というわけだ。このアメリカの哲学者曰く、

ふつうの人間は驚くほど容易にかつ首尾よく他者の行動を説明できるばかりか、さらに予測までもできる。そのような説明や予測の際に、われわれは標準的には、行為者がもつとされる欲求や信念、恐怖、意図、知覚などに言及する。しかし、説明は法則を――少なくとも大ざっぱな法則を――前提とする。法則によって説明条件が、説明されるべき行動に結びつけられる。(127頁)

ここでチャーチランドは《法則が説明項と被説明項を結びつける》と言う。こうした法則としては――あくまで形式的で抽象的なものだが――彼自身は次のようなものを挙げる。

すべてのxとpについて、xがpということを望み、かつxがpということを発見するならば、xはpということを喜ぶ。(131頁)

例えば――冒頭で挙げた例だが――〈宝くじで大当たりを当てて喜ぶ〉というA氏の行動はこうしたスキームの法則で説明できる。そして、宝くじで大当たりを当てたA氏について私たちは《A氏は喜ぶ》と予測できるのは、まさにいま述べたような法則のおかげである。あるいは、チャーチランドはそのように指摘する、ということである。

たったいま付け加えた「チャーチランドはそのように指摘する」という但し書きは看過されてはならない。なぜなら行動予測などを「法則」という概念で分析するやり方に反対する哲学者もいるからである(有名どころはロバート・ゴードンやジェーン・ヒールなど)。この点についてはすぐ後でもう一歩踏み込んで解説するが、さしあたり《人間の行動予測という事態を「法則」という語で記述する点においてすでにチャーチランド自身の積極的主張は開始している》という点は押さえられたい。

さて、チャーチランドの用いる「素朴心理学」の意味を掴むのが本節の目標であったが、今やこの点は説明できる。このアメリカの哲学者は「われわれは外的状況、内的状態、および外的行動の間に成立している法則的な関係に関する知識の総合体を暗黙のうちに駆使する能力を共有している」と述べ、次のように言う。

この知識の総合体を、その本性と機能を考慮するならば、「素朴心理学(folk psychology)」と呼ぶのがまさしく適切だろう。(127頁)

すなわち、人間の行動の意味の理解や行動の予測に用いられる法則をまとめあげた体系(これを私たちは日々暗黙のうちに使っている)が「素朴心理学」と言われる、ということだ。ここで、なぜ「素朴」かと言えば、ひとつには理論的心理学のように教室や教科書で学ぶ必要がないからである。チャーチランドは素朴心理学を「常識的な」法則体系とも呼ぶ(127頁)。

2. チャーチランドの「素朴心理学」の理解の正当化

チャーチランドの「素朴心理学」の理解の特徴は何だろうか――それは素朴心理学を「理論」と捉える点にある(法則の体系はときに「理論(theory)」と呼ばれるので)。これに対して行動の予測などは、法則という「体系的な」道具立てによるのではなく、心内のシミュレーションという非体系的操作によって行なわれる、とする立場もある。そして《いかにして人間は互いの行動を予測するか》などに関していわゆる「理論説(theory theory)」vs「シミュレーション説(simulation theory)」という対立があったりもするのだが、これは本報告の関心を超える。とはいえ、チャーチランドによる「素朴心理学」の理解が唯一的かつ普遍的なわけではない、という点は留意されたい。

さて――話を進めると――じつを言えばチャーチランド自身も反対意見の存在を知っており、彼は問題の論考において《素朴心理学は理論と捉えられるべきだ》と積極的に主張する議論を複数提示している。本節ではその中で最も重要なひとつ(と私が考えるもの)を確認しよう。

思考あるいは命題的態度は多かれ少なかれ論理に従う、と冒頭でも述べられたが、ここでチャーチランドは次を指摘する。すなわち、こうした〈思考の論理性〉は素朴心理学を理論と見なすときに説明されうる、と。第一に一般的に言って、理論は論理を骨格としている。例えば――チャーチランド自身が挙げる例だが――物理学の理論において「質量」や「力」は次のような論理的関係をもつ。

すべてのxとfとmについて、xがmの質量をもち、かつxが正味fの力を受けるならば、xはf/mで加速する。(130頁)

この言明は一種の法則の表現だが、こうした法則によって「質量」と「力」は次の意味で論理的に振る舞う。それは、私たちが質量と力のそれぞれの値を知るときそこから論理的に加速度の値を導出できる、という意味である。

さて――第二の点だが――「なぜ命題的態度は多かれ少なかれ論理に従うのか」と問うてみよう。素朴心理学の理論説はこの問いへ分かりやすい答えを提供する、とチャーチランドは言う。それはすなわち、命題論的態度の論理性は、理論(ここでは素朴心理学)の論理的骨格に由来する、という答えだ。チャーチランドは理論としての素朴心理学に属する法則として次のようなものを挙げる。

すべてのxとpとqについて、xがpということを信じ、かつxがpならばqということを信じるならば、混乱や動転などがなければ、xはqということを信じる。
すべてのxとpとqについて、xがpということを欲し、かつxがqならばpということを信じ、かつxがqということを生じさせられるならば、相容れない欲求や優先すべき戦略がなければ、xはqということを生じさせる。
(131頁)

これは「信念」や「欲求」などに関する法則を表現する言明だが、チャーチランドによれば、こうした法則のおかげで「信念」や「欲求」は論理的に振る舞うわけである。

押さえるべきはチャーチランドが、引用の法則(とそれに類する一群の法則)が「……を信じる」や「……を欲する」などの言葉の使い方を「定義」しており、それによって私たちの理解する信念や欲求は論理的に振る舞う、と主張している点だ。ここでは事柄の順序に注意されたい。じつに話の順序は決して《思考が論理的に振る舞うからこそ、思考に関する理論が構築可能になる》というものではない。むしろ、そもそも「……を信じる」や「……を欲する」などの語彙が理論のうちで定義されているからこそ、私たちは信念や欲求を論理に従うものと把握するのである。そして、このように考える場合、《思考は論理的に振る舞う》という事態はまったく神秘的でなくなる。――このようにチャーチランドは考え、次のように言う。すなわち「心的状態の志向性は今や自然の神秘として出現するのではなく、素朴心理学に属する概念の構造的特徴として出現する」(129頁)。

3. 消去主義を支持する論証

ここまでチャーチランドが私たちの行動予測などの実践の枠組み(すなわち素朴心理学)を「理論」と見なすことが確認された。他方で――本報告のメインの議論へ進むが――彼は同時にこの理論を「誤った」理論と見なす。すなわち彼は、素朴心理学を「われわれの内的活動の説明として根本的に不適切」と捉え、それを〈廃棄されるべき理論〉そして〈ベターな他の理論によって置き換えられるべき理論〉と見なすのである(133頁)。

いったいチャーチランドは素朴心理学がどの点で誤っていると考えるのか――これについてはすぐ後で説明することにして、その前に注意点をふたつ述べる。

第一に、チャーチランドは、素朴心理学は誤った理論であるので廃棄されるべきだ、と主張するが、彼の実際にやっていることは少なくとも彼の外部に視点を置けば以下のように記述できる。すなわちチャーチランドは、素朴心理学を誤ったものと見なしたいがために、《素朴心理学は理論だ》という立場に拘っている、と。というのも、理論に関してであれば「正しい/誤っている」を語ることは意味をもつが、もし素朴心理学が理論でなかったとすれば、それを「誤っている」と言うことはナンセンスになりかねないからだ。要点は繰り返せば次である。《なぜチャーチランドは理論説に拘るのか》という問いに対しては《彼が素朴心理学を「誤り」と見なしたいからだ》と答えられる、と。

第二に、どんな理論によって素朴心理学が置き換えられるべきだとチャーチランドが考えているか、についてもあらかじめ述べておきたい。彼は次のように言う(引用の「FP」は素朴心理学を指す)。

自然誌と物理科学の観点からホモ・サピエンスにアプローチするならば、われわれは人間の組成、発達、行動能力に関して、素粒子物理学、原子・分子理論、有機化学、進化論、生物学、生理学、そして唯物論的な神経科学を含む整合的な物語を語れる。その物語は、まだ根本的に不完全ではあるが、すでにきわめて説得力があり、FPをFP自身の領域においてさえ多くの点でしのぐ。(137頁)

すなわち、(チャーチランドの理解では)素朴心理学は〈人間の行動を説明したり予測したりすること〉を目的とする理論であるが、こうした目的にとって自然科学にもとづく理論の方がより役に立つ、ということだ。かくしてチャーチランドは人間の行動の説明や予測という実践から素朴心理学の語彙(例えば「……と信じる」や「……と欲する」など)を取り除くことを奨める――これが冒頭で触れた「消去主義」の考え方だ。

では《なぜチャーチランドは素朴心理学が誤っていると考えるのか》という点へ進もう。彼はその理由として複数挙げているのだが、ここでは代表的な三点を確認したい。箇条書きにすれば次である。

・素朴心理学の説明力を超えた心的現象が多々ある(例えば学習過程など)。
・素朴心理学は長期にわたって「停滞」しており、理論的に発展していない。
・素朴心理学は他の諸学(とくに自然科学)と統合されない。

ひとつずつ見ておこう。

チャーチランドは、素朴心理学は例えば「精神病の本性や原因」や「適切な検索を瞬時に行う能力を備えた記憶」のような事象を説明できない、と言う。彼によればこの理論が説明できない心的現象はかなり多い。その顕著な例が「学習」である。曰く、

なぜならば、学習を命題的態度の操作や貯蔵とするFPの学習観は、命題的態度の豊富な組織を形成し、操作し、貯蔵する仕方そのものが学習されたものであり、多くの獲得された認知技能にすぎないという事実によって破綻するからである。(135頁)

じつに人間は乳幼児期に言語のシャワーを浴びることによって〈命題を操作すること〉そのものを学ぶ。かかる根本的な学習を素朴心理学は説明できない。なぜならこの理論は学習を命題の操作の一種と見なす(それゆえこの理論によれば命題の操作ができない段階での学習は不可能である)からだ。かくしてチャーチランドは「FPはその構成からして、この最も基本的な謎に取り組むことさえできないように思われる」と言う(135頁)。

このように素朴心理学には解けない問題があるのだが、それにもかかわらず――チャーチランドは強調するが――それは未決の問いへ答えるために理論を発展させたりははしない。曰く、

[…]ここ二、三千年の間、FPはその内容と成功のいずれに関しても目立った進展を遂げていない。古代ギリシャ人のFPは本質的にわれわれが現代でも用いているFPであり、われわれがその用語によって人間の行動を説明するときソフォクレスよりも優れている点はないに等しい。これはどんな理論が示すにせよ、非常に長期にわたる沈滞と不毛であり、とりわけそれ自身の説明領域において、そのような膨大な変則例と謎に直面するときはそうである。完全な理論であれば、ことによると、進化の必要はないかもしれない。しかしFPはひどく不完全である。(136頁)

例えば物理学はガリレオの頃から考えても日進月歩であり、理論の説明力が増す出来事はしばしばある(例えば「エネルギー」概念の導入はいろいろな事象の説明を可能にした)。ひょっとすると、未決であった問いに対して発展によって新たな答えを生み出すという運動の有無こそが当該理論の正しさの「見込み」の基準だと言えるかもしれない。逆に長期にわたる停滞は「その基本的なカテゴリーの健全性に疑問を抱」くことの動機になる(136頁)。そしてチャーチランドは、いまや素朴心理学はその誤りが証明されるほどに停滞している、と主張するのである。

しかしながら――三点目の話に進むが――素朴心理学は、全体的に消去される必要はなく、むしろその大半の部分をより良い理論へ引き渡すべきものかもしれない。そしてその場合には「……と信じる」や「……と欲する」などの馴染みの語彙も存続する可能性がある。すなわち、より精密な理論が「信念」や「欲求」などの語彙を引き継いで、こうした言葉のより正確な使用を可能にする、ということがありうるかもしれない。この場合、文字通りの「消去」は必要ないだろう。――こうした意見へチャーチランドは反対する。

すなわちこのアメリカの哲学者は、素朴心理学の内容は物理学・化学・生物学を基礎とする「統合的な」自然科学へ引き継がれることはない、と主張する。曰く、

[…]FPはこの成長しつつある統合には属さない。その志向的なカテゴリーは大きく孤立しており、より大きな全体へ還元される見込みはほとんどない。私の見解では、還元される可能性は否定できないとはいえ、FPの説明上の無能さと停滞ゆえに、そのカテゴリーが神経科学の枠組みに適切に再現されるとはとうてい信じられない。(137頁)

ここでは、「電子」や「水素原子」や「アミノ酸」や「タンパク質」などの一群を為す自然科学的概念(これらが統合的な科学を形成する)に対して「……と信じる」や「……と欲する」などの語彙が孤立している、という点が強調されている。たしかに、命題的態度を表現する語彙と自然科学の術語を比較すると、何かしらの異質性に気づかざるをえない(どのような「異質性」であるかが問題なのだが)。かくしてチャーチランドは、自然科学で用いられる諸概念を組み合わせて「信念」や「欲求」のようなものを作るという可能性は「とうてい信じられない」、と言う。そして次のように結論する。すなわち、私たちは、いさぎよく素朴心理学を捨て去って、「人間の感覚入力、神経活動、そして運動制御に関する綿密な記述」という認知科学的な道具立てで人間の行動を理解すべきだ、と。

同じ点を別の言葉で説明しよう。じつにチャーチランドにとって素朴心理学は、古典力学が創られつつあったときのアリストテレス自然学や生化学や有機化学が創られつつあったときの生気論などと同じ地位にある(137-138頁)。これらは、以前には説明や理解や予測のために用いられていたが、より「正しい」理論の出現によって捨て去られた。そして(歴史学的興味の外では)もはや顧みられることはない。素朴心理学もこうした運命を辿るべきだ、とチャーチランドは主張しているのである。

4. 消去主義に対する「規範性」にもとづく反論

以上が、チャーチランドが消去的唯物論を擁護するために提出する議論である。いささか抽象的であるが、議論の背景に20世紀半ば以降の認知科学や神経科学の発展があることは注意されたい。本報告の残りの箇所では――紙幅の関係上踏み込んだ議論はできないのだが――消去主義への反論を瞥見する。それは複数存在するが、以下では最も重要なもののひとつ(と私が考えるもの)である「命題的態度の規範性」にもとづく反論を見てみよう。

素朴心理学は、私たちのあり方を記述するというよりも、私たちのあるべきあり方を指定するものだ――と指摘されることがある。次の「法則」を例にして説明しよう。

・すべてのxとpについて、xがpということを信じるならば、xはpでないということを信じない。

じつに(この言明を人間のあり方の記述と見るとして)この記述に反するケースが多く存在することはすぐに分かる。例えば「致死性がある」と見なされている病気Zに罹ったかもしれないひとは「自分はZに罹った」と信じながら「自分はZに罹っていない」と信じるという動揺した状態に置かれるだろう。

このケースでは(素朴に考えれば)ひとりのひとが同じ命題の肯定と否定をともに信じている。これはうえで挙げた法則の記述に反している――そしてチャーチランドであればこれもまた素朴心理学の記述力の低さの証拠と見るかもしれない。しかしながら素朴心理学の規範性を重視するひとにとっては、こうしたケースは何ら問題ない。なぜならそうしたひとは、引用の言明を〈万人に当てはまる法則的記述〉と見るのではなく、それを〈理想を表現する規範〉と見るからである。簡単に言えば、素朴心理学には《どうすれば合理的に行動できるか》を教えるルールや規範の面がある、ということだ。例えば〈同じ命題の肯定と否定をともに信じない〉というのは「合理的」であるために必要な態度を指令するルールの一部なのである。

以上の指摘は消去主義への反論に繋がりうる。なぜなら、この指摘は素朴心理学に固有の役割(合理的振る舞いを規定すること)を認めるのだが、しかもこの役割は自然科学が代わりに担うことができないように見えるからだ。言い換えれば――チャーチランド自身のこの反論の定式化の言葉を引くが――すなわち、

神経科学はFPを有効に補完するかもしれないが[…]規範的な特徴づけとしては置き換えられないだろう。(139頁)

じつに神経科学は、現実のあり方(例えば人間の神経システム内の情報処理の行なわれ方)を探究するが、決してそれ自体では《どう振る舞えば合理的になれるか》を語らない。自然科学はあくまで現実の記述である。それゆえ、私たちが「合理性」という基準を大切にする限り、自然科学が代わりに担えない素朴心理学の仕事があることになる。かくして、少なくともチャーチランドの言う「ラディカルな」仕方では、素朴心理学は消去されない。

――以上の反論にチャーチランドは当該論文の内部で応答しているのだが、もはやその中身を見る余裕がない(関心のある方は論文を読まれたい)。本報告の内部で語られた話の結論を書き表せば次のようになるだろう。仮に素朴心理学の(広い意味の)「記述的」役割(ここに行動の説明や予測は含まれる)がより良い理論に取って代わられるとしても、《はたして素朴心理学の規範的側面が他の何かに取って代わられうるかどうか》についてはさらなる考察が必要である、と。命題的態度の合理性と素朴心理学の規範性については回をあらためて論じることにしたい。

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自由意志の哲学
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