語学好きのための語学談話――ドイツ語とフランス語について

外国語を学ぶと世界が広がる、と言うひとがいる。それが真実か否かは、その文言の意味にもよるのだろうけれど、私自身は、或る意味で(ただしあくまで「或る意味で」なのだが)「世界が広がる」と考えている。

私は前時代的な哲学訓練を受けた最後の世代であり、教師陣からの〈諸外国語を読めるようになること〉へのプレッシャーにおおいに曝された。いま振り返って言えることは、〈哲学すること〉それ自体にとって外国語の熟達はかならずしも必要でないということだ。ときに外国語が読めずに不便が生じることもあろうが、せいぜいその程度である。

とはいえ、それはそうとしても、外国語を学ぶと世界が広がる側面があるので、〈外国語を知ること〉が何かしらの思索の糧になることはある。以下では、ドイツ語とフランス語に即して、私が「外国語を学ぶと世界が広がる」と述べることの意味を説明したい。

ドイツ語を学ぶ際に、楽しいのは、そして同時に苦しいのは、いわゆる「格」だ。

もちろん、ラテン語を学ぶ際にも、古典ギリシア語を学ぶ際にも、ロシア語を学ぶ際にも、格の勉強は付き物である。とはいえ、私見によれば、日本のアカデミズムにおいて最もポピュラーな格変化はドイツ語のそれだ。

格とは何か。ドイツ語やラテン語を知っているひとにはお馴染みだろうけど、それはある種の名詞変化のこと。

「格」。英語では「case」。ドイツ語では「Fall」――この名詞に対応するドイツ語動詞は「fallen」、意味は「落ちる」だ。英語の「fall」から推察できるだろう。

押さえるべきは、格が〈落ちること〉と何かしら関係する、という点だ。じっさい、英語の「case」のラテン語における語源的動詞は「cadō」、これもまた「落ちる」である。

ではそれはどこから落ちるのか。それは、名詞の正規形から、ということかもしれない。例えば、ラテン語においては、薔薇を意味する語の正規形は「rōsa」だが、そこから格変化すると、「rōsae, rōsae, rōsam, rōsā」という具合に形が正規形から離れる。この意味で「落ちる」と言われるのかもしれない。

さてドイツ語を学ぶ際に、フランス語を学んだとしてもスペイン語を学んだとしても得ることのできない楽しみが、こうした名詞変化、すなわち格変化である。いや、じっさいにはラテン語などの方が格の数は多いのだけれども、先に述べたように、日本のアカデミズムにおいては「ザ・格変化」はドイツ語のそれだと思う。

ではドイツ語の格の具体的な説明へ進もう。パラダイムにするのは次。

der Hund, des Hundes, dem Hunde, den Hund

すなわち、いわゆる1格は(定冠詞込みで)「der Hund」、2格は「des Hundes」、3格は「dem Hunde」、そして4格は「den Hund」という具合。細かな説明はしないが、形式的に訳語をあてれば、1格の「der Hund」は「犬は」、2格の「des Hundes」は「犬の」、3格の「dem Hunde」は「犬に」、4格の「den Hund」は「犬を」、となる。

何が起きているかを理解するひとつの仕方は次だ。すなわち、いわゆる「てにをは」的な変化が名詞変化で行なわれる(もちろん対応は完璧ではない)というのが格変化という言語現象だ、と。

例えば、例文を挙げると、「Der Hund ist stark」は「その犬は強い」で、「その犬の身体は強い」は「Der Körper des Hundes ist stark」となる。ドイツを学び始めるときには、この種の変化を身体に叩き込まねばならない。ドイツ語既修者はみんな念仏のように唱えたはずだ。「die Frau, der Frau, der Frau, die Frau, das Kind, des Kindes, dem Kinde, das Kind, 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と。

ちなみに私はハイデガー研究者の四日谷敬子先生のドイツ語の授業で独文法を学んだのだが、格変化や動詞活用で学生が誤ると先生は厳しく叱責されたので、授業にはつねに緊張感と或る種の恐怖がはりつめていた。四日谷先生には別のゼミで『存在と時間』の読み方を教えて頂いたこともあり、いろいろな点で感謝している。

さて、格の感覚を身につけると、何というか、世界が広がるところがある。具体的に言えば以下だ。

例えば、den Hund、という表現を私が見る場合を考えよう。

この表現をみると、私は、何かしらの不安を抱き、ドキドキしてしまう。犬を…どうするのだ? 「den Hund」を見ると「犬を…………」って感じ。おいおい、荒っぽいことは止めた方がいいよ、やさしくしてやれよ、とか思ってしまう。

それに対して、dem Hunde。

これは、多くの場合「den Hund」ほど不安を与えない。なぜなら、「den Hund」が〈直接的に何かをすること〉を示唆するのに対して、「dem Hunde」は〈間接的に何かをする〉ような感じをもつからだ。ひょっとしたら他のひとは他の感じ方をするかもしれないが、《格の違いは何かしらの感じ方の差異を引き起こす》という点は主張可能だろう。

さらに言えばネイティブはもっと微妙な感じをもつにちがいない。いずれにせよこれが格の感覚。「den Hund」 と「dem Hunde」 で異なる感覚が喚起する。そしてこうした感覚が開く世界を体験することが語学を学ぶ楽しみのひとつである。

ドイツ語の話はこれくらいにして、次はフランス語について。フランス語を学ぶ際に楽しいのは、形容詞のかかり方だ。

フランス語においては、いつもではないのだけど、形容詞は名詞に後置される。もちろん、イタリア語やスペイン語もこうした特性をもつのだが、私の主観的経験によると、アカデミズムにおける「ザ・形容詞後置」はフランス語のそれだ。なぜなら、私が大学に入学したとき――記憶によれば――第二外国語はドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語のいずれかから選択せねばならなかったのだが、この中で「形容詞後置」を基本とするのはフランス語だけだからだ。

形容詞の後置には独特の快感があり、この感覚は独位の世界を開く。具体的に言えば、とりわけ色の形容はとても心地よい。

例えば、フランス語で「目」は(定冠詞付きの複数形で)「les yeux」であり、これに形容詞「bleu(青い)」と「foncé(暗い)」をつけると、性・数一致して次のような感じになる。

les yeux bleus foncés

訳せば「ダークブルーの目」だけど、語順通り読めば、まず「目」があり、その後に「青い」が来て、最後に「暗い」となる。目+青い+暗い、って順に出てくるわけだ。

はじめに「目」がある。で、どんな目? 「青い目」 どんな青い目? 「暗い、青い目」

これは、言ってみれば、はじめにスケッチがあり、だんだんと線が書き加えられていくという仕組みである。あるいは、はじめに〈類〉を述べ、そこから〈種差〉が加えられていく。ここには整然としたロジックがある、と言えるかもしれない。

比較のために「明るい青の目」がどうなるかを見てみよう。この場合「clair(明るい)」を用いて

les yeux bleus clairs

となる。これまた、目+青い+明るい、という順に、いわばスケッチに線が加えられていく感じだ。

ここには、はじめに〈類〉を捉え、全体の輪郭を捉えることでもって開始する、世界の開け方がある。ここでは、言葉を重ねれば重ねるほど、はじめに捉えられた全体がディティールを得る。とはいえ、はじめに全体が捉えられているので、思考はつねに明晰な次元にとどまる。フランス的明晰性はここにある、と言いたくなる事態だ。

哲学業界も専門化の波にのまれ――この影響は小さくないと思うのだが――《大半のひとができる限り多くの外国語の訓練をする》という時代は過ぎ去ってしまった。例えばラテン語を読める分析哲学者は何人くらいいるだろうか。とりわけ近年の研究者志望のひとは、早い段階で成果を出さねばならないので、訓練のコストの高い外国語学習へ腰を据えて取り組むことができない。外国語学んで論文書けず――だと生きていけなくなる。このあたりはたいへん悩ましい。

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自由意志の哲学
コメント (1)
はじめまして。
noteの「こちらもおすすめ」にあがっていたので記事を読ませていただきました。
3格(与格)を dem Hunde とするのは現代ドイツ語的には正しくありません。dem Hund が正しい形です。-e を男性単数3格につけるのは古典の世界の話ですので念のため。

またフランス語の形容詞後置は必ずしもいつもそうとは限りません。Bonne idée のように特定の形容詞は名詞の前に来るのが普通です。なのでフランス語の形容詞後置をもって言語の明晰性を論じるのは飛躍しすぎだと思います。

どうも、唐突に来て、横やりを入れてしまってすいません。ドイツに住むこと30年、言語学を専攻した手前フランス語も含め多数の言語を習ったため、ちょっと黙っていられなくなりましたもので。失礼しました。
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