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狂信的な読書家との戦いは、映画『セブン』の中で男の三角関係として描かれた。

梅雨入りである。

私は毎年、梅雨になると映画『セブン』を見ることにしている。

やー、今年もこの季節がきたなと。

とにかく雨がばっしゃばしゃ降りしきる作品で役者やスタッフも靴の中が大変だったことであろう。

この作品を少なくとも20回は見ているといろんな事に気づいてしまい、作り手のこだわりやセンス、作りこみに敬服の気持ちでいっぱいになる。

今までずっと『羊たちの沈黙』から連なるミステリーの系譜として考えたり、デヴィッド・フィンチャー作品の真髄として見てきたのだが新たに「狂信的な読書家」という軸に気づいたのでここに綴りたいと思う。

※以下、ネタバレを含むためお気を付けくださいませ。

まず、ジョン=ドゥ。

「大食」「強欲」「怠惰」「肉欲」「高慢」「ねたみ」「憤怒」の7つの大罪になぞらえて殺人をおかしていく連続殺人鬼。

7日間で連続事件が展開するというゲームマスター的な犯人で。

彼がなぜそんなメッセージ性の強い殺人を犯し続けたのか。

『地獄より光に至る道は長く険しい』

彼が最初の殺人で残したメッセージである。

ミルトンの『失楽園』からの引用という。

この映画に出てくる犯人(ジョン・ドゥ)は、「これを知ってるかな?」というように書物からの引用をぶつけ、それに答えてくれる人が出てくることに期待をしていたのであろう。

書物を読みふけり神をあがめ、びっしりと文字だらけで不気味な日記をつける彼はその表現先として殺人を選んだわけで。

この犯人の心境はいわゆる「狂信的な読書家」によく当てはまるところがある。

自分が読んで取り込んできたものに浸りきったあげくにその内容を糧として他者にマウンティング行為をかけるという。

この作品の中では、ジョン・ドゥのマウンティング行為が被害者たちだけではなく、ミルズ刑事にまでおよぶのだが。

一方、捜査をする側の2人の刑事の関係はというとこれも読書の話でとらえてみると面白いことがわかる。

モーガン=フリーマン演じるサマセット刑事は読書家で犯人からのメッセージを読み取ることができた。

そして対照的に穏やかで知性的な人柄だ。

まさに「狂信的な読書家」が求める「理解してくれる読書家」だ。

もう一人のブラッド=ピット演じるミルズは直線的で野心を持った若者となっている。

苦手なジャンルの読書に耐えながらもサマセットにすすめられた『神曲』『カンタベリー物語』を読みこんで、ちゃんと読みこんだことをサマセットに話すサマはなんとも健気だ。

それを「読んだのか?」という時のサマセットの笑顔たるや。

この二人の場合、ぎすぎすしているものの読書がらみの捜査をすすめるにつれて師弟(コンビ?)めいたものがやんわりと芽生えてくる。

事件解決とやんちゃな若手の成長をうながしたいサマセットの先輩魂が静かに熱い。

一度、整頓するとこうである。

犯人が「理解してくれる相手」として選んだのがサマセット。

サマセットが「いずれ理解させたい相手」として接したのがミルズ。

犯人がマウンティング相手に選んだのがミルズ。

ミルズからするとまさに「たとえ図書館に通おうとボケはボケだ」なわけで、犯人の心境なんて理解なんてしたくないわけで。

少しだけここで話が脱線するが、ジョン・ドゥは「足が悪かった」という証言がワイルド・ビル皮革店で出てくる。

この映画でも足が悪かったのか、ジョン・ドゥ。

そして、クライマックスへ。

ジョン・ドゥはミルズとサマセットを指名し、3人で死体の隠し場所に行くことを条件として出してくる。

やはりこの三角関係にある。

現場に向かう車内でジョン・ドゥはミルズの方を向いて諭すように「どうせ君には理解できない」と。

サマセットは深く相手を読んで「矛盾」を指摘する。

「もしお前が何か偉大な力に選ばれてこうしてるならなぜ自分が楽しんでる?」と。

受け手に見せて深く切り返す。サマセットはやはり静かに熱い。

だがマウンティングや非難まみれのジョン・ドゥはむしろ正義の味方のようなことを吐く。

「もっと普通にある人々の罪だ」と。

「私が見せしめをした」と。

ちなみにジョン・ドゥというのは偽名である。

偽名で指紋も残さず人を攻撃して、「私が見せしめをした」と思い込んでいる。

これはSNSなど私たちの日常でもよく見る光景ではないか。

ジョン・ドゥはまさに「正義のつもりな非難者」と言えるであろう。

彼が「話ができてよかった」という台詞が重い。

そして、「正義のつもりの非難者」が増えるという恐ろしくも悲しいストーリーに帰結する。

さて、ここで読書家の話に戻らせていただきたい。

「狂信的な読書家」の心理を読み解き、それでも悲劇を避けられなかったサマセット刑事。

「狂信的な読書家」が驕り高ぶって人々に説教というマウンティングを行っていたとき、同じく読書家の彼はどうふるまっていたか。

中盤の図書館のシーンを回想いただきたい。

図書館でたくさんの蔵書を前にポーカーをしている人々に向かってサマセットはこう言い放つ。

「諸君、なぜだね。この書籍と知識の山に囲まれて君たちは一晩中ポーカーとは」

読書体験とは「読まない人に対してそう思うようになりがちだよ」、とこの映画が教えてくれた気がする梅雨の夜でした。

自戒の念をこめて。

にしたってこの作品には梅雨が合う。

雨音を聞きながら、映画『セブン』を鑑賞するのはいかがでしょう。


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