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ぼくが僕になるまで(幼少期③)

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「それぐらいでいいよ。ストップストップ。これじゃあマヨネーズの海だ」目の細さから鑑定すると、どうやら母さんを怒らせてしまったみたい。目が鉛筆の細さと張り合えるぐらいに細い。でもこれぐらいでいちいち尻込みしていたら、いつまでたっても改善されやしない。本気で人を変えようと思ったら、強い気持ちが大切だ。ぼくは母さんの手からマヨネーズをうばい取ると、それ以上の添加増量を食い止めた。こちらはサラダをポテトサラダにした時点ですでに妥協してるんだ。「五人寄れば必ずいる、あの太っちょ役にはなるのはぼくはごめんだ」


 母さんは、まるでぼくの顔の輪郭の外縁に太ってしまった際の予測線を試しに描いているみたいに、じっと見つめる。「真。これ以上やせたらスルメイカのようになってしまうわよ。それでもいいの?」
「あんなに引きしまったら本望だ。噛めば噛むほど味が出てくるなんてさ」


 母さんは混ぜる手を止めて、ポテトサラダの入ったボウルをスプーンごとこちらへ寄越してきた。「自分の分だけ取り分けなさい」


 指示に従い、ぼくは必要な分だけのポテトサラダを皿に盛る。
「それだけしか取らないの?」この頃やたらに油分を欲しがる母さんのために、二回はお替わりできるだけのポテトサラダをボウルに残しておいた。
冷ぞう庫からトマトジュースを出してコップへとつぎ、手首とお腹の間にコップを挟みこむ。空いた両手でポテトサラダが盛ってあるお皿を持つと一度の行き来で運ぶことができる。イスに座るとテレビをつけ、番組を一回りさせてバラエティー番組に合わせた。


 キッチンからいい匂いが漂ってきた。フライパンをこする、それなりの音も。けど、料理はまだなようだ。ぼくは麦茶を一口飲んで、『ダレン・シャン』に手をつける。いよいよクライマックスだ。テレビの音量を下げて、本に集中できるような環境を作る。


 少ししたところで母さんがブリの照り焼きと、ほうれん草のお浸しをテーブルまで持ってきた。いっしょにおわんも持ってきて、テーブルの上でトン汁をよそう。
「ごはんよ、本読むの止めなさい」番組がニュースになり、音量が上がる。
「いただきます」まずはブリを一口。表面が光ってるだけで、中まで味が染み込んでない。「ちゃんとレシピ通りに作った?」
「これにレシピなんかないわよ」母さんはぼくの方を見もしない。目はテレビに向かっている。「いちいちそんなこと気にしていたらね、何にも作れやしない」母さんも一口パクリ。
「それは絶対的な味覚の持ち主しか言っちゃいけないセリフだね。料理の才能ないんなら、謙虚な気持ちで、何かの基本にのっとって作るべきだ」母さんの顔はテレビに向かっていたので、かたっぽの耳の穴がぼくに対して素直に開かれている。つまり、母さんの耳とぼくの口とは最短距離で結ばれているわけだ。助言するにはこれ以上ない位置関係。ぼくは煮汁をブリにかけて、もう一度口に運ぶ。この一口も、ぼくに助言をするようけしかけてきた。「ブリの照り焼きなんてものは、昔っから配合が決まってるんだ。それをおろそかにしちゃあ美味しくなんてできるわけがない。工夫なんて二の次にすることだ」


 ピンポーン。チャイムの鳴る音がリビングに鳴り響いた。耳は単なるお飾りではなかったらしく、母さんは食べていたブリをティッシュに吐き出してゴミ箱へと投げ捨てると、すぐさま玄関に向かっていった。


 やっぱりポテトサラダはこれぐらいの味付けじゃなくちゃな。あのままじゃ口の中がべとついて困る。なんで母さんはあんなに盛んにマヨネーズを入れたがるんだ?今日は特にひどかった。あれぐらい味が濃かったらゴハンに乗せて食べられるんだろうけど、ポテトサラダよりはふりかけでゴハンを食べるほうがずっといい。どこかにのりたまあるかな。しけててもいいから。
 リビングと玄関の間のドアが開き、まずはじめに父さんがリビングに入ってきた。父さんは、顔全体をくまなく使って笑っている。「マコト、ただいま」なんだか、初めて会ったかのようなあいさつだ。アナウンサーのように、言葉を一つ一つ区切って言う。父さんの黒目はぼくにしっかりと合わされ、身体の向きも同程度。最低限のマナーとして、逸らすわけにはいかなそうだ。ぼくの気分はどしゃぶりの雨の中で拾われた子犬。
「おかえりなさい」とぼくがあいさつを返すと、父さんは満足そうにしっかりとうなずいた。まるで正しいことがより一歩前へと前進したみたいに。その一歩を積み重ねることで、今は見えない偉大な何かに行きつくと期待してるみたいに。ぼくからの返事を受け取ると、父さんは中断していた母さんとの会話に戻ってくれた。母さんも父さんも何だか一生懸命しゃべっている。一つ一つの言葉にうなずきあってニコニコしあう。


 テーブルの前に立ち止まり少し会話を交わしたあとで、「じゃあ、シャツ汚しちゃいけないから、洗面所で着替えてくるよ」と父さん。それで入って来たドアからまた廊下に戻っていった。ご丁寧なことに、父さんはどこへ行くのにも前もって行き場所を告げてから向かうつもりなんだろう。


 ぼくは食べ終わった皿を重ねて、キッチンへと運んだ。キッチンには母さんがいて、そわそわと立ち働いていた。まるで新しい係に、例えば揚げ物係から教えてもらったこともない盛り付け係に変わったみたいだ。腕を組んで、出来た料理をお客に出していいものかどうかと母さんは迷っている。
 少しして、着替え終わった父さんがキッチンに入ってきて、母さんの後ろから、「こりゃ上手そうだな」と声をかけた。「ぶり大根なんてさ、家庭的でいいじゃないか」


 ぼくは冷ぞう庫から麦茶を出し、コップに注いでごくごくと飲んだ。すぐに異変に気付いてぼくは口をコップから離した。苦くて変な味。だまっては見過ごせない味だ。コップをかざしてコップにたまった残りの麦茶を見ると、雨が降ったあとの土の色をしていた。パックを入れ過ぎたことが見え見えだ。作った人は、朝早くに仕込んでおいたことを夕方遅くになるまですっかり忘れてしまったみたい。
「なんだ。うまいじゃないか」とリビングから父さんの声。いつの間にかテレビの音量は抑えられ、二人は向かい合って座っている。「味もよく浸みていて、美味しいよ」たぶん父さんが食べているのは、父さん用に特別作られたやつなんだ。ぼくのとは使ったしょうゆ一つとっても違う。「これは君のお母さんから教えてもらったのかい」
「そんなところね」母さんは秘密めかしたようにクスクスと笑う。
「美味しいから、またこの料理頼むよ」母さんは腕であごを支え、父さんの食べる様子を見つめている。まるでガラスケースに入ったこぶし大のダイヤモンドでも見ているみたいに。
「ビール冷えているわよ」
「ほんと気が利くなあ」
「キリンとアサヒがあるけど、どっちがいいかしら」
「どっちでもいいよ」


 しばらくしてから、母さんはゆっくりと椅子から立ち上がった。冷ぞう庫から缶ビールを取り出し、戸だなから背の高いグラスを二つ取り出すと、それら一式をテーブルの上に置いた。「ちょっとだけ私もいただこうかしら」母さんはいたずらっぽく笑う。
「君はだめだ。わかってるだろ」父さんもいたずらっぽく笑い、母さんの出っ張った腹をなぞる。「なっ、だめだよな」
 ぼくはリビングにいてもやることがないので、本を手に抱えて自分の部屋に戻った。

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