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斯くもすばらしき入院生活④

「あなたこそ体調は大丈夫なのかい?」彼がベッド横に着き次第、今度は私から問いかける。「分けてくれるほど持ち合わせちゃいないようだけど」
 彼は何を聞かれているのか理解できないような訝し気な表情を見せる。「ああ、もちろん。もちろんだよ」彼は自分の体調のことなどここ数年考えることはなかったようだ。思考に上らないほど絶好調であったのならいいのだが、それは望むべくもない。
 そこで私は外堀から攻めることにする。「仕事は?」
「仕事はっていうと?」
「順調に進んでいるのかい?」私は早口にならないように自分に抑制をかける。「だって顧客が集まらないといって引っ越したいと言い出したのはおまえじゃないか」
 彼は数年前に紛失したお気に入りのネクタイピンについて話すみたいに、「ああもちろん順調だよ。最近は依頼が多すぎて手が回らないぐらい。秘書でももう一人雇おうかと思っているところだ」


 新たな耳寄りな情報を得た私は興奮を隠せない。なにせ情報を蓄える千載一遇のチャンスなのだから。私の貧弱な情報網は、嫁か孫からのおこぼれをどうにか継(つ)ぎ接(は)ぎすることで成り立っているのだ(光栄なことに本人から直接電話がかかってきたことは一度としてない。二十年前も今もそれだけは変わらない)。
「それは何よりだね。人様があなたを頼って続々とやって来るっていうんだからさ」彼の発言を私はあくまで前向きに捉える。
「ああそうだね」彼は新しいアイデアを発見したかのように一度は目を輝かせるも、その輝きを深みへと取り込むのと時同じくしてマゾヒズム的微笑を浮かべる。「忙しくて目が回りそうだ」そう言って、虚空を見つめる作業に忙しくなる。虚空といっても病院の淀んだ空気でしかないが。おそらく息子は今更ながら自分が下した判断が正しかったのかどうか、自身に向けて一石を投じてみたのだ。それが予想を上回る効き目で心に作用したために受け損じてしまい、自分自身何を望んでいたのか皆目わからなくなってしまった。おそらくそんなところだろう。彼は今、くずおれてしまうのを避けるためとりあえずの繋ぎとして過去から理由をかき集め、その貧弱な棒切れで支えようとどうにか対処を試みているはずだ。そのような、思考をかき乱してしまう感情に思いがけない場所で出くわしてしまうと(そう、彼はごく純粋な気持ちで母親の見舞いに訪れたはずだ)、身構える時間さえ持てず、人は直立するだけのいたって無防備な姿勢で固まるしかない。でも私からすれば、直立できているだけまだましなのだ。


 私は息子が好きなだけその姿勢を保っていられるようにこれ以上の質問をすることを控え、声をかけないでいることにした。その甲斐あってか、ほどなくして彼は渓谷を走り抜けるトロッコ列車と張り合う速さでその内省的自己憐憫から立ち返り、深々と息を吸いこめるまでに回復した。彼は白いシーツの上まで瞳を落としていく。意図して下げたのではなく、自らの重さで下がっていくように。それで私は、時間の潮流の速さに対し情けを乞うような濁った瞳と向かい合うことになる。私の腕に触れ、抜け目なく私の右足にも目をやって彼は、「まあお母さんが元気そうでなによりさ」と自分のことなど脇に置いた科白を吐く。これはどういった場面で、どういった返答をすれば適切だろうかという推量で頭がいっぱいになった私は少し頭がおかしくなっているのだろう。ここに連れてこられてからというもの、あまりにも相手の役割という尺度で物事を捉えてきたために、その思考法に慣れてしまったのだ。

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