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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(青年期⑥)

★ 笑うことには何の理由もいらないよ。

外は予想以上に暑かった。見えない熱気で冷え切った身体が急速に温められていく。もうちょっと段階的でもいい気がする。根野菜のように真水ぐらいの温度から温めてみてはどうだろうか。人っていう生き物は小松菜やほうれん草よりは、どちらかと言うと人参や蓮根に似ている体型なんだから。


 赤茶色と焦げ茶の入り混じった正面広場を抜け、ミユと僕はエスカレーターに乗った。待っていると地上が目線の高さまで下がってきた。そのとき、ミユが顔を前に向けたままぽつりと「そうね」と呟いた。まるで昨日まで元気にしていたひな鳥の死骸を玄関先で見つけでもしたかのような口ぶりだった。その小鳥が成長し、大空を飛び回っている姿を心に思い描いてでもような目で、ミユは遠くの景色を見晴るかしている。エスカレーターを降り、少し歩いてから彼女は話を続けた。「そんな作品群にお目にかかったことはないわね。探偵でもそれほど根気強くは写真を撮り続けない」
「な、そうだろ」
「そうだろ、じゃない」彼女は少しだけ首を回して僕の姿を視界に入れた。僕を見るミユの目は細まっていたけれど、怒っているようでもなかった。その目はもっと切実な何かを追い求めていた。「それをして何の意味があるというの。ただ息せき切った一人の平凡な男のデータが積み上がるだけじゃない」
「何の意味があるだって?君はそう言った?」と僕。僕の口から出た言葉が受け取り手のない孤児になる前に━━物は試しに三秒間は待ってみたのだけれど━━僕はそうならないよう責任もって自身の言葉を引き受けた。「何の意味もないに決まってるじゃないか」
「じゃあなんでそんなことを言ったの?」と言って、柵を連ねた門の前を通り過ぎたところで、ミユは誰かから呼び止められたかのように急に立ち止まった。ミユが歩みを止めると、肩にかけられたハンドバッグも動くのを止めた。彼女の華奢な肩まで伸びるその革紐が、僕には以前にもまして細くなったように見えた。跡はつかないが、肩が仄かに赤くなるほどの細さだ。「前のお宅のご主人が決められた定時に職場に間に合うか間に合わないか、そんな誰も興味を持たなそうなことをファインダーに収めること。それも毎日彼よりも早く起きて、出てくるその瞬間までずっと待っていろと、あなたは言う」僕ら以外に門の前で道草を食っている人は一人もいなかった。みな僕らの横を通り過ぎ、それぞれの目指す目的地に向けてせかせかと歩み去っていく。「あなたと会話していると、ほんとに嫌になることが時々あるわ」
「誰も君を怒らせようとは思っちゃいない。僕がそう言ったのは君が意味あることで、という条件を僕に課さなかった、ただそれだけの理由からなんだ。最初にそう一言もし言ってくれていたんなら、僕だって違うことを助言したさ」
「ああーもう。人の言葉をあげつらうんじゃなくって、親切に補ってくれたり、良心的な解釈を施すことがあなたにはできないの?」
「できる範囲で努力するよ」
「努力じゃなくって、これは義務よ。わたしと話す際においての最低限の義務」
「じゃあ君は、僕とユーモア溢れる会話を楽しみたくないと。ただ目的だけ、情報だけを交わし合って、後は沈黙している方がいいというのかい。ちゃちゃをいれることもなく、おざなりの微笑みを交わし合うだけの遣り取り」


 ハンドバッグを引き寄せると、ミユは思い出したかのように歩き出した。キビキビとした歩き方。もたつく僕との間に、五メートル、十メートルと見る見る間に差が開いていく。ショルダーバッグを邪魔にならない位置に付け替えてから小走りになって、僕は遅れを取り戻しにかかった。こういう時にランニングが役に立つ。いつも特技紹介で苦い思いをしていたが、ここでやっと健脚ぶりを披露できるというわけだ。特技なんて、さっと取り出せて、アッと驚かせるもの以外なんの意味もない。「そのユーモアっていうのがあなたの場合は強すぎるの」僕が追い付くと(僕を突き放そうとしていたわけではなかったようだ)彼女は呟いた。「バランスの問題ね。サラダにかけるドレッシングだって、どれほど美味しくて、どれほど趣向が凝らされていても全体にまんべんなくかけられていちゃたまらないわ(僕がうんうんと頷くとドレッシングのサラダ添えなる料理を目にするよりも嫌そうな顔)。逃げられる余地も残しておいてくれないと。口の中がそれ一色になってしまって何を食べているのかわからなくなってしまうわ」
「なるほど。じゃあ今度からいろんなドレッシングを振りかけてやることにしよう。そうすれば一つの味に飽きがきたとしても、他の味を試してみることが出来る」
「もういい。もういいわ」ミユは周りを漂う密度の薄い匂いを振り払うかのように頭を左右に振った。僕がいる側の右サイドの、耳にかけられていた髪は動くことはなかった。左サイドの方は回り回って、逆方向から見てみないことにはわからない。「話を先に進めましょう。意味のあることの中から次は探し出してちょうだい。意味があって、まだ誰にも行われていないことから」
「それは難しいな。そういえばさ、君はアボカドに目がなかったよな」
「アボカドは好きよ」
「それじゃあアボカドを撮り続けたらどうだい」僕らは両脇を木々で固めた狭い歩道に足を踏み入れた。太陽は中空から退場し斜めから地上に降り注ぐことで影を長く淡いものへと変えていた。それでも暑いことには変わりなかった。コーヒーを飲むとしたら迷わず冷たい方を選ぶ。
 彼女はため息をついた。「ちゃんと考えてって、さっき言ったわよね」
「僕はいたって真面目だよ」


 僕とミユは木漏れ日で彩られたパッチワーク上の石畳の遊歩道を回っていた。そこには色の欠けた葉が所々に降り積もっていて、踏むと音なく幾分かのしなやかさを持って僕らの体重は受け止められた。遊歩道を一周し、窄まっていくような作りの入り口から僕らは公園に入った。火照った身体を涼める場所を求め、木陰に置いてあるベンチに僕らは腰を下ろした。公園の奥の、何個かあるうちのブランコの一つでは二人の子供が遊んでいた。一人は男の子、もう一人も男の子。二人の母親は、ブランコを囲む鉄枠に腰かけて話し込んでいる。誰が話の槍玉に挙げられているかはわからないが、少なくとも彼女たち自身のことではなさそうだ。皮肉の応酬をやりあっているようには見えない。話し込む彼女たちの後ろでは、子供たちがブランコに乗り、可能な限りのスピードで地面を蹴っては身体を反らしている。子供たちの間に特別これといった会話はない。
「それに頭も君の言葉を汲むぐらいには働いている。僕は君が前のお宅のご主人を撮ることに好色を示さなかったものだから、より好むと思われる題材を提示しただけだ。アボカドよりもっと好きなものがあれば、そっちを選べばいい。もし君が、眼鏡のフレームのあの優雅な曲線を好むというのなら、三百六十度から見たその美しい造形をファインダーに収めればいい。もし君がお茶碗から香り立つあの高貴な湯気を好むというのなら、それが生成しそれがまた消滅していく例えようもないほど素晴らしい瞬間をファインダーに収めればいい。数ある選択肢のなかから一番気に入るやつを選べばいいと僕は言っているだけだ。アボカドを撮れと薦めようとは誰も思っいやしない」
ミユは手を後ろに伸ばすと、身体を後方へとずらした。そのちょっとした一つの仕草で僕の視界から彼女は完璧にいなくなった。
「アボカドでも眼鏡でもどっちでもいいの。聞きたいのはなんでわたしがそれらの一つを選んで撮り続けなければならないのかってこと。アボカドが目の前にあったら腐る前には食べてしまいたいし、眼鏡であれば眺めまわすんじゃなくて、もっと適切な使い方、より一般的で推奨されている使い方に沿って使いたい」


 ブランコに乗っている二人の子供たちのうちの一人が、身体を反らすことを止め、代わりに身体を横へ縦へと揺さぶりはじめた。ブランコを吊り下げる鎖が彼の運動に合わせてうねり、らせん状に暴れ出す。スピードが上がり、しだいに自分の元を離れてしまって手なずけられなくなったことに彼は恐怖を覚えたのかもしれない。自分の制御できる範囲を超え、はるか彼方に行ってしまう前に。身体を揺らし、さも楽し気に笑っている男の子の横では、もう一人の男の子がいまだ身体を前に後ろにとブランコを漕いでいた。友達の呼びかけに頓着することなく、速度を上げることだけに集中している。
「まあ君の言わんとしていることはわかるよ。だけど僕から見て、君が一番得意そうだと思ったのは写真を撮ることだったからだ。得意なことは往々にして一番時間をかけてきたことであり、もしそれが親から強制されてきたものでなかったとしたらのなら、一番好きなものにでもなりうるはずだ。取り組むのなら、嫌いなものよりは好きなものの方がいい。もし違うものがあるのなら、僕に構わずそちらの方を取り組んだ方がいいのはもちろんのことだ。君が写真を撮るのが得意そうだから、それを取り上げたまでだよ」
「わたしはね、もっと変わったことがやりたいの。カメラ片手にうろちょろするんじゃなくってね。それは十中八九とは言わないまでも大体の人がやったことでしょ」彼女は僕からより遠ざかった位置で話しているようだった。「一目で人をアッと驚かせられるもの。誰も考えさえついていないもの」
 ブランコを漕いでいる男の子は、今や彼の身長を越えたところで推移していた。端まで跳ね上がると彼の投げ出した脚で顔が隠れて一つの塊に変わる。鎖も板の動きについていくのがやっとの様子。そこまで上がってしまうともう誰にも手出しはできそうにない。親も、友達も、さっきまでブランコを操っていたはずの彼でさえ。誰にもスピードを緩めることはできそうにない。でもそんな中でも彼は笑っていた。この浮き沈みが楽しくて仕方がないというように強く、めいいっぱいに。彼は隣に座っているもう一人の相棒に向けてではなく、自分でもなくって、遠くの太陽に向けて笑いかけていた。


「ねえ、聞いてくれ」と僕は言った。「君はひどく間違っているようだ。端(はな)から人と違ったものを求めようとするのは、僕にはあまり得策だとは思えない。なぜなら君はそれを客観的な水準から求めているからなんだ。人からどう思われたいか、というその一点から選んでいるからなんだ。それは違うよ。すぐに、そうでなくともいつかは後悔することになる。なぜなら君は常に指標を外部に持たなければならなくなるからだ。このことにかけては、あくまで主観的に選ぶべきなんだ。誰かじゃなくって、まずは君が好きだと声を大にして言えるものから取り組むべきなんだ。もし好きなのだとしたら、十年それをやりつづけても飽きはこないだろう。十年経ってもまだ、日々の日課となったカメラのお手入れをやり続けているだろう。新鮮な気持ちのままでね。見た目には好きなことが他人と同じでも、細部までいくと他人と同じになるなんてそうあることじゃあない。もしかしたら君はご主人の顔の日々の変化に喜びを見出すかもしれない。晴れた日の朗らかな表情、風の強い日の頬の強張り具合、寝坊した日のあたふたした表情にまで。顔のお次は彼の足の運び方や、服装、髪の乱れ方といったものへと君の興味は自ずと向かっていくだろう。そうやって彼の世界に属する他の物事にまで君の興味が向かっていけば最高だ。一つの物を突き詰めていくことは、自分を狭めていくことじゃない。むしろ逆に、彼の世界を通してますます拡張されていくんだ。そしたらもう君を止めることができるものなんて何もありゃしない。何人も君の邪魔なんて出来やしないんだ。唯一の懸念材料は、そのきっかけとなる糸口を探り当てるのは少々厄介かもしれないということだけだ。君の言う通り、それは実際骨がくたびれる作業になるかもしれない。けど一度でもそいつに出くわしたら、君はあと、そいつを大事にしてやればいいだけだ。誰になんと言われようと、そいつの首根っこを放さないようにすればいい。そうすればもう迷うなんてことはない。他のつまらない物事なんて、君の周りにおいては役立たずの無意味なガラクタにしか過ぎなくなる」

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