複数の創造空間

書くことが好きで、いつもどこかで書いている。ここに書けることもあれば、ここに書けないこともある。不思議なことで、場所によって、自分で何かしらの一貫性をもとうとしている。

書いている時の身体は、書いている内容や書いている時の文体によってまったく異なる。学術っぽいことを書くのか、小説をかくのか、エッセイを書くのか、など。また英語やフランス語で書く時も身体が異なる。

わたしは複数の身体を持っている。それなのに、不思議なことに、たとえばここのnoteでは、エッセイで少し昔に立ち返るような風として一貫性を保とうとしている自分がいる。

おもしろいことで、自己同一性を自分でも求めている。それは、社会から履歴書や身分証明書に、その人物の同一性を求められるだけでなく、自分からも自己が同一の存在であることを求めている。

ブログ、論文、小説、フランス語、英語など、言語とテーマが異なれば複数のわたしがいることになるのに、それぞれ孤立した自分であろうとする。

ここで制限してしまわないことが自分にとって、よい。

自己は単一ではないことを知り、複数の自己があることを肯定する。肯定できるその場所を作ること。動きすぎる自分を肯定できる場所を複数つくってしまえばよい。ここで制限をかけて、一つの自己であろうとするから精神がきつくなってしまう。

また、それぞれの場所での自己同一化を図ろうとする自分を肯定すること。わたしがいて、わたしA(日本語、文体は固め、内容は学術)、わたしB(フランス語、文体はエッセイ的、内容はエッセイ)みたいに、それぞれの分裂したわたしがいる。そのそれぞれのわたしは、それぞれの書く場所で、一つのわたしであろうとする。その一つであろうとするわたしを肯定すること。

自己同一性を求めるのではなく、複数の自己がいることを肯定すること。多重人格という症状は、自己同一性を強く求めるばかりに、別の自己をうまく扱えなくなったことにある。スキル不足である。

問題は、複数の自己を肯定しようにも、社会はその「複数性」を容認しない傾向にあることだろう。履歴書はひとつであって、また身分証明書もひとつしかない。分裂して、欲望を解放しても、社会と折り合いがつかなければ、家の窓から飛び降りるだけだ。

生き延びるための戦略として、複数の場所をつくればよい。複数の書く場所、複数の創造空間。その社会に抗する、また社会にうまく潜りこむための戦略として、複数の創造空間を乱立させよう。

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