「美」についての考察、概念を前提としていない対象についての考察方法をもとに

今回は「美」について。「美しさ」とはなんだろうか、ということについて考えていきたいと思う。

ここでは、個人的な体験をエモい随筆風にまとめるのではなく、客観的な美というものを考察してまとめる。そのため、伝統的な美学や芸術哲学の論点を、自身の体験や思考を踏まえて再検討していく形になる。

「美しさ」についてはワカラナイ

自分は、美しさとはなにかが本当に分からない

これは自分が長年感じていることなので、この主張は最後まで堅持したい。ちょっと前大学生だった頃に、美術史の教授に幾度も「美」について質問したのだが、そのときもイマイチ望んだ答えが得られなかった。もうかれこれ5年は、この問題でずっと悩んでいる。

多くの問題は、分かっていないことを分かった風にして話を進めることによって発生する。だからまず、自分には分からないということを明らかにしておこう。

考察の難しさについて

ではここで、なぜこんなにも定義することが難しいのかを考えることで、「美」の内実に迫っていくというスタイルに切り替える。

その原因は、ズバリ「美は概念から構成されない」という点だろうと思う。

例えば、なんでもいいのだが「鉛筆」を考えてみよう。鉛筆とは、紙に筆記するために使う道具の一つだ。木でできた軸に、黒煙と粘土でつくった芯を入れて持ちやすくしたもので、片側の末端部分を削って露出させて、芯を紙に滑らせて使う。これが、鉛筆だ。

このように通常わたしたちは概念を把握することで、そのものを理解することができる。しかし、美はそうはいかない。

この違いは、本来「」が形容詞であり、「鉛筆」が名詞であることをみれば分かりやすいだろう。名詞は一定の物体を指していて、一義的な明瞭性を持っている。一方形容詞は、様々な対象に分散して認められるある属性を指している。

形容詞の中でも特に「美しさ」、「豊かさ」、「面白さ」など、主観の判断を契機として使用する言葉は、さらに定義が困難だ。

主観の判断を契機とする

ここで美が「主観の判断を契機とする」という点から、さらに「美とはなにか」が捉えがたいものかに追い打ちをかけたい。

主観の判断が認められる以上、美的判断には個別的な状況も含むということが言える。つまり、どんなものを美しいと思うかについては、文化や時代において偏差があり得るし、個人的な差もあるだろう。だが、現象は多様なのにもかかわらず、自分が求めているのは普遍性を持った美の定義なのだ。

ここの段階でまだ「美」について、「美」側に寄り添いながら粘り強く思索している時代もあったが、もうこれは挫折した。

とりあえず美についてはワカラナイ。また作戦変更だ。次は、視点を逆転するという方法で「美」の内実に迫っていくというスタイルに切り替える。

視点を逆転する

もう「美」の側には答えはないと判断し、美を主観の側から規定することにしよう。どういうことかというと、「美」を美しい対象の特徴から考えるのは、その多様性ゆえにあきらめる。そうではなく、美を経験する心の特質によって、美を定義しようということだ。

まだ、こちらの方が可能性はある。

人間は美しいものを見たときに「美」を理解する。主に視覚による直感的な知覚によるものが大きい。精神的な快感情が生まれている。などなど。

こうすることでいろんなヒントをゲットできる。

だが、精神的な快感情とはいえ、「すごいな」と思っても「美しいな」とは違うときもある。うーん。「すごいな」はどちらかというと芸術だし、「美しいな」はどちらかというと美術だったりするのか。

正直、まだまだ思考は浅いが「美」については悩んでいる旅の途中である。

美と芸術

実は近代の美学でも、美と芸術を同一視することで多くの混乱を招いていたりする。現代の日本でも、「美術」と「芸術」を混同することで多くの誤解が生じている。

だが、これをわれわれが日本語で考えるのは難しい。なぜなら、これらの用語が翻訳語だからである。実は芸術という言葉は『後漢書』にも出てくるのだが、これは継承語ではないので、現代の意味とは異なる。

多くの翻訳語を生み出した西周は、fine artsに「美術」、liberal artsに「芸術」という訳語をそれぞれあてた。もっと時代を遡ると、「藝」は「わざ」を意味することばであり、「美」は漢字の構成要素は「羊」と「大」である。「義」「美」「善」など、古代の中国で「羊」が重要なのは間違いない。もう次に書くことをざっとメモがてらにまとめている。

とりあえず、「美」がなにかについてはワカラナイ。次に書く記事の内容は「美術と芸術の違い」についてである。

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