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「勉強しなきゃ」って思えることそれ自体が、すでに知性のはじまり。

一生懸命勉学に励む学生たちのことを、自分は本当に尊敬している。

それは、「学生は勉強すべきだから」などという紋切り型的な陳腐な理由からではない。それよりも、その重要性に気づくだけの知性、あるいは、それを楽しいと思えるだけの知性をすでに持っているからだ。

これって意外と重要なことなんじゃないだろうか?

つまり知性は、「勉強しようと思って身につけるもの」というよりむしろ、「勉強をしようとするその姿勢」こそなのではと思う。

というのも、今年は自粛期間で家に長時間いた人も多いと思うが、そこで「よし、勉強しよう」と思う人はどれぐらいいただろうか。もしくは、日頃から時間ができたら勉強したいと思っていても、いざ時間ができるとなかなか思いを行動に移せないものではないだろうか。

そうやって考えると、大学生で自力で勉強に意欲的に取り組んでいる学生は、本当に尊敬に値する。いや、大学とは本来そういう場所なはずだ。つまり前提として、学びたいという意欲、そして知性をすでに持った人が学ぶために行くところなのではないだろうか。

たまに、「大学の授業はおもしろくない」的な発言を聞くことがある。けれどその場合、それは教授の力量が足りないというよりも、授業を聞いて「おもしろい」と思えるだけの知性が自分側にないと判断すべきなはずだろう。

なぜなら、大学は授業で聞いたことを単に覚える場所ではなくて、自分の興味関心の幅を広げる機会をもらう場所だからだ。だから、自分で積極的にいろんな文献を読み漁らないといけない。

そうやってダラダラ受けた授業も、大学を卒業してから学び直しで聞きたいと思ったら、意外と結構なコストがかかるし。

つまりグダグダ何が言いたいかというと、「大学は何かが学べる場所だ!」という認識を持つ人は多いかもしれないが、意外と「大学生活の学びが良いものになるかどうかは、そもそも入学時点の知性にかかっている」のかもしれない(説)。


大学生たち、勉強ファイト!!

(おそらく社会人になると、その差はもっと広がるのだろうけど。)

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