見出し画像

“見ることのリアル”を見ているのは誰か

“レアンドロ・エルリッヒ展 見ることのリアル”を見てきた感想。
隣でやっているドラえもん展の方が混んでたけど、日曜日の午後ということもあって、こちらも少し混んでいました。

レアンドロ・エルリッヒは、国際的に活躍するアルゼンチン出身の現代アーティストで、日本では金沢21世紀美術館に恒久設置された《スイミング・プール》の作家としても知られています。森美術館 - MORI ART MUSEUM

インスタへの投稿を促すアテンションが入り口にありました。

インスタの投稿は830件くらい。「Leandro_MAM」は打ちづらいからちょっと投稿が少ないのかも。

作品の“仕掛け”

この展示を見て感じたのは、「作品の仕掛けが分かりそうだから見たくなる」ということ。

・水がないのに浮いているように見えること
・鏡がないのに映っているように見えること
・壁がないのに登っているように見えること

そんな「ないものがあるように見える」という仕掛け(またはその逆)が多かったような気がします。

こういった作品を目の前にすると、その作品そのものを見るというよりは、「どういう仕掛けで作品が成り立っているか」ということに関心がいきます。
展示会場では「なるほどなー」的なリアクションを多く聞きました。

なにを鑑賞するか

アンドレアス・グルスキーの展示を見た時にも感じたことだけど、作家の作風、というか「作品の成り立たせ方」を知ると、それが作品の中でどう使われているのかを確かめるような確認作業をしてしまいがちです。

それが良いかどうかは各々の感覚だと思うけれど、作品の仕掛けを確認すること=作品を読み解くこと、ではないよなとは思います。(読み解けなくてもいいじゃん!という意見には大賛成なのだけれども。)

どういう点でこの展示の作品達を面白いと思うのかが気になりました。

世界の構築性

同じような仕掛けで楽しめる、トリックアートミュージアムにあるものと、この作品たちの違いはなんなのだろう。
一つ言えることは、展示された作品達は、超現実のような風景を作り出すことで、世界の構築性やリアリティの仕組みを問い直すことを意図している、ということ。(出口近くで流れているインタビューで言っています。)

なぜ超現実のように見えるのか、それは人々が日頃接している情報によって物事の秩序や枠を作り出しているから。「思い込み」というと分かりやすいでしょうか。

今はインターネットの普及によってさまざまな情報が簡単に手に入ります。昔の人からすれば、魔法のような速度で物事の秩序が形成されていきます。

例えば、この展示は来場したら指定された楽しみ方で作品を写真に収め、それをSNSへアップする、それが作品の楽しみ方で、この展示を見たという証拠になる、というような秩序。

作品を見て、仕掛けを含めた「作品の見方」に気付いて写真を撮り、それをシェアする。それを見た人がまた来場し、同じ楽しみ方をなぞり、またシェアする。

同じループの中で、「こういったことが楽しんだということだ」というお約束ができていきます。世界の秩序を問い直す作品の展示で、秩序やルールを作り出している鑑賞者ってなんなんですかね。よく分からなくなります。

別に写真を撮ったりシェアしていることを咎めているつもりはなくて、「なんなんだろうな」って考えるきっかけになるところが、作品達の面白ポイントなのだと思います。

∴    ∵    ∴

楽しめましたが、「〜ということを意図している」というようなキャプションの丁寧解説っぷりは、今回は逆に作品をつまらなくしているなと思いました。
見て思ったことはそれくらいです。